図・写真を除く文章のみの掲載。
頭上を飛ぶ御鉢
酒乱因子の吹きだまり
慈愛一路で生きた母の最期
母の心残り
さて、長男が復員するや否や、やはり、この心の不協和音は、ますます動き出してくる。一口酒を飲めば、父子喧嘩のゴングが鳴ったようなものである。
ふだん、下向き加減でいる父が、酒に乗り、一気に堪忍袋の緒は緩みっ放しとなる。もう一方の、兄も同じようである。
協調的会話のない家庭は、どうしても情緒が歪んでくる。温かさが育たない。そして、独りよがりで、心の丸味にも欠けていたように思える。そうして、自己表現がうまくできないため、どうしても、偽装心ばかりが発達してくるようだった。また、酒によってコントロール不能となるから、酔って後の行動は、無責任となるから恐ろしい。私の内面性も、やはりそのようだったように思われる。
私が中学生であったある日の夕飯時、父は、どこで飲んできたのか、泥酔寸前のまま、ひとまず部屋で休んでいた。かたや兄は、食膳で酒を飲んでいる。父と兄の距離は二メートル少々だった。どんな会話が発端となったのかは知らないが、二つ三つと険悪な会話が飛んでいた。
その時、一瞬、静まったと思ったところが、なんと、ご飯の入ったお櫃が頭上をかすめて投げつけられた。父には当たりこそしないものの、枕元は飯の海となる。
母は、「ハーッ」と息を飲み、ワナワナふるえ、波打つ肌。一心に魂を鎮めながら、父の枕元に駆け寄って、すばやくご飯を拾いあげながら、心の中では、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!!」の念仏を唱え続けていた。
この家は、一触即発の時限爆弾を抱えていたと同じであった。
「うるせーいッ」
と、飯の入ったお櫃もろとも投げつけた兄も、また、酒乱の因縁にさいなまれていたのである。
母は二十一歳で父と結ばれ、七十六歳で肉体を去るまでの五十五年間は、本当に、並みの女であれば、飛び出すか、気狂いになったろう。ところが、心はますます静寂感に充ち、深い目覚めの境涯にあったようだった。諸行無常の鐘が鳴り響く心境になっていたのだろう。
決して、父の批難三昧をするのでもなく、自分の生命の中で、生き続ける父の魂であるからこそ、その目覚めえぬ心を、自ら戒め、調和への反省としたいためである。決して、不名誉なことでもなく、浮わついた心でもなく、末長き、調和安泰を子孫に継がせたいための、命賭けの悲願であったからなのだ。
良薬であるべき良き友〝酒〟が、我欲の限りにおいて委せ飲む時、良薬転じて毒薬となってしまう。
「わかり切ったことを言うなッ」
と、一喝されるかもしれない。だが、このわかり切ったことで、この世が大混乱をするのだから笑うに笑えない。いつも、悩み苦しみの原因となるのが、この〝当たり前〟のことではないのか。ちょっと、頭を冷やせばすぐにわかることなのだが、一線を守ることの、いかに難しい人心であることか。
今、精神病院に直行する者が実に多いようである。聞くところでは、全国で二二〇万人以上の人たちが、アルコール依存症であるといわれ、うち、女性がその一〇パーセントを越しているという現実は、とても深刻な問題だ。
また、その予備軍といわれる飲酒習慣性の人々も、広く各家庭に及んでいるともいわれる。
酒による事件、事故、酒と女のトラブル、家庭破壊、アルコール性の肉体疾病、精神性の疾病、その他、拡大波及する酒害と薬害等は、個人差があるとしても、社会性をともなう大きな問題である。経済的にも、精神的にも、一大損失なのである。
あえて、この内情深い一文を世に問うことには、それなりのわけがある。それは、この世に一人でも多く、豊かな心で生きてもらいたいからなのである。目の前の、ごく当たり前のことに迷うことなく、一人でも多く目覚めてほしかったからである。
「人間は、目覚めていく動物である」
と思う。いつか、必ず、行き着く〝目覚めの心〟こそ、生まれながらに受けた、生命の愛ではないのか。
ところで、酒によって、心が阻害されるようになってくると、一生涯、人に迷惑をかけることになる。
知人の一人は、たった一度の入院で、茫洋とした人格に変わってしまった。数十年前のこと、酒と宗教のことで、一時的な霊的現象が発端であった。初めてのお経に真剣に心を集中すると、現実的意識が薄れていく。そこに、酒が入っていたものだから、余計に自意識が薄れていく。その時、霊動と言われる、潜在的意識の浮上現象が起きた。
今の心が留守になり、無意識的な行動をとる。その時、梯子を抱えながら、流水に入って、念仏を唱えていたというのである。周囲から、異常行動だったから不審だと見られ、精神病院へ強制手続きで入院させられてしまった。
だがそれは、あくまで一時的現象だったと思われる。酒が醒め、お経が中断して、自己意識を高めていくならば、この混沌から、容易に抜け出すことができたはずだ。その一瞬の判断によって、一生涯、無能力者的な自分を引きずっていくことになり、これほど残酷なことはない。
だが、私は彼に一灯の望みをかけたい。生命ある限り、生命の中で働く、バランスのとれた正常感覚がある限り、希望を失うことはあるまい。
精神分裂病でさえ、その六〇パーセントくらいは、霊的現象であると述べた外国の精神科医の著述もある。彼は、治療薬として投与され続けた薬の収斂性のためか、言語はレロレロとなりながらも、薬物安定という異常心理にある。薬を飲んでいるからこそ、安定を保っているという現実はおそろしい。だが、元はといえば、その原因と責任は、すべて本人にあるのはもちろんだ。
究極は、日々どう生きたかであり、酒害一般、酒乱、その他の不幸性というのは、神や仏の使者であり、不自然、不調和な生き様に対する〝生命の愛〟であると思う。
「早く気つけッ、早く目覚めろッ」
と、母は自らの苦渋に満ちた因縁を解くために、父を許し続けてきた。そのため、母が背負った悪業因縁は、とても浄化されたはずであろう。だが、父の酒害は、父自身の目覚めがないため、浄化されることなく、そのまま残ってしまった。そして、我々は、台風の吹き返しのごとくに、軌道を逸脱していくことになる。
この姿を見ていた母は、無念を越えた、一切の許しの魂が働いていたのではなかったろうか。
運命は、人の心の具象として、この世という現象界に雪崩れていく。
〝心〟で作りあげたこの世の、一切を思う時、運命もまた、人の心の産物でありうる。心で作りあげたものであれば、必ずや、〝心〟で崩すことができるということである。その持続する熱意があるならば、酒害にしても例外ではない。
私に、雪崩れ込んだ酒乱の怒濤も、妻の愛一念によって、夫に不撓不屈の精神力を育てあげてくれた。ついに、二代にわたる、父と子の酒害人生に、終止符を打つことができた。
母は、五十五年の長きにわたり、いわれなき因縁といえども、必然の因果の流れに狂いあるはずはない。だが、不運にもめげず、岩のごとき精神力で、酒乱の夫に尽した。不平不満、憎しみなどの、煩悩一切を、笑顔で打ち払いながら、一途に尽し切った。
思えば、魚行商は朝の勝負だが、明日を考え、夜遅くまでの仕入れに出かけなくてはならない。冬の平野は、足元から雪が吹き上がり、風速二十数メートルという猛吹雪の中を、橇に鮫を一杯積んで、満身の力を振り絞って、家路を急ぐ。五里(二〇キロメートル)の道程は、並みの精神力でできることではない。
また、何度となく目撃したが、大根漬を丸かじりしながらの行商だった。穏やかに食事することは、本当に少なかったと思い出される。
晩年は、犬を助手につけての商売だった。「商いは、飽きないでやるから、商いという」とよく言っていた母は、一歩一歩、牛歩のごとく、ムラなく、いつも心のタガを締めて働いていた。
一日一日を、とても尊く、ありがたく、刻んで生きた。ある夕暮れの時は、電柱を人と間違えて、立ち止まって挨拶をしていた母を思い出す。そして、どんな時でも、陽気な明かるさを絶やすことのない人柄だった。
私は、急遽、帰郷はしたものの、母の臨終にはすでに遅く、その亡骸に触れただけであった。生涯、心配をかけどおしの私を、諫めることのひとつもなく、胃癌に犯されるまま、腹部は青紫色と化して、壮絶ともいえる臨終を迎え、この世を去っていった。
昭和三十九年二月二十一日、白銀に輝く雪の日。享年七十六歳である。
親不孝三昧に明け暮れた自分を顧みて、今、ここに酒乱人生を世に問い、人の心の、いかに尊く、正しく生きねばならないかを、赤裸々に、背開きをして、世の人々に訴えたいと思う。
母亡き後、二十六年目のお盆、八月二十一日のことだった。
奇しくも、自分の知らざる次元の中で、母の心残りであったことを、今、私が代行していることに気づいた。
それは、父系の墓地(無縁墓地となっている)の守りのことである。この話は、断酒四年目のことだった。廃家断絶となっていた墓地は、母が生前守っていたものであるが、直接に聞いた覚えはなく、それらしい雰囲気だけしか私の記憶にはなかった。
だが、妻の心霊現象が激しさを増す日々の中で、その光の波動に寄り集まってくる霊魂の世界を、感ずるようになっていた自分は、後ろから押される衝動で、動き出していた。
母が出生したこの街には、四十数カ所の寺があるが、探し求めて、十四番目の曹洞宗の墓地で、処分寸前のところを発見できた。ここの住職に「お宅の先祖さんはありませんねェ……」と言われた時、一瞬、えも知れぬ胸騒ぎがした。
「失礼ながら、私にも一度、過去帳を拝見させてください」
と、願い寄った。そうして、ついに発見できた。〝満天の喜び〟は、今でも残る感動だった。そして、過去帳にあれば、必ず、どこぞに墓はあるはずだ。それから数時間後、土に半分ほど埋もる二体の墓石を発見することができた。
二十一日は、母の命日である。住職の言うままに引き下がっていたら、永久に捜し出せなかったことになる。さらに、住職は、「無縁墓地は、そろそろ整理処分する予定だった。よかったですねェー」と言う。
そして、墓の頭部対角線には、刀傷が生々しく、薄く苔むしながらも、くっきりと刻まれていた。
このように、母の心残りとしたことを、無意識的に代行している自分に気づく。母は、こうして、私をかりて、頑張っているのではないだろうか。
話は、平成三年二月二十一日十二時二十一分のこと。母と、はっきりわかる声なき声を聞くことができた。
〝生きてかよわす 身のさだめ〟……
と、私の体の中、胸か腹のほうからか、深く遠く、そして近く、立体的に響いてきた。二月二十一日は、母の本命日だ。また、十二時二十一分は、母の生命の証しを、確信させられた一瞬である。
こうした〝数〟に生きて、寄ってくる亡き心々の証しは、妻にとっては日常のことでもある。だから、妻の生命(光=愛)を通して、私の先祖の魂も、成仏を求め、この世の、数魂に生きたのではないだろうか。
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