共時性現象を通して観る生命
『酒乱‐米の生命が生きるまで』は、この著者の作品の中でまず一番おすすめしたい本。この本を一言で表現すると「赤裸々ないのちの叫び」だろう。「いのちとは」「心とは」という文字通りの「命題」について、体験を通じた非常に強いメッセージを発している。後年、この著者は『死んでも生きている‐いのちの証し』『神秘の大樹』という著書を出版しているが、第一作であるこの本を読むと、なぜこの人物が共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、きっと腑に落ちるだろうと思う。
著者の実父は酒乱だった。普段の寡黙で実直な性格は酒のちからによって一変し、家族は振り回された。成人した著者は、父の二の舞にはなるまいと心を引き締めるのだが、やがては自分自身も父親と同じ〝酒乱因子を開花〟させてしまう。数々の問題を起こし続け、ついにはこの世を生きる術としての職業はすべて〝天に〟吸い上げられることに。普通なら離婚されても不思議ではないかもしれない。しかし著者の妻は違った。幼な子を連れた夫人の苦しみは想像を越えるものだったにちがいないが、極限に達した彼女は弱って病むどころか、ひるがえって愛と誠一筋で何としても自分の夫を更生させる決意を固めたのだった。ところどころに描かれているこの夫人の言動は非常に印象的だ。まさしく著者夫妻の二人三脚による共同作業でしか誕生し得ない「生命愛の証し」である。(かつて)酒乱の夫なくしてこの夫人なし、夫人なくしてこの著者はない。人はここまで強く誠実になれるのか、そして及ばずながら人としてこれに近づきたいという思いを抱かせてくれる。
私自身もそうだが、自分の心なのに、自分のいのちなのに、なぜこんなにコントロールがむずかしいのか…苦しくて切なくて大声で叫びたくなるような思いを経験したことのある人はきっといるはず。共感する人が多いにちがいないと感じるかぎり、ひとりでも多くの人々の目に留まる機会、触れられる場を提供し続けたいと思わせる一冊である。
酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな生き方を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのように出会う共時性現象の記録を随想としてまとめている。ごくごく身近で個人的な事例の数々は、読む側にとって独善的でくどいと感じるかもしれない。著者本人もまさに共時性現象の「個人的」「独善的」性格を自覚していて、押しつけがましくならないよう読者に一定の配慮もしていることが文面からは感じられる。
この本を初めて読んだのは、出版されたのと同じ年。巻末に近い終盤に「食と人間生命との関係」について述べている点はとても印象的だった。いっぽうで、当時は(著者に対して失礼ながら)まさしく個人的、独善的、くどいという印象を受けたように記憶している。それから20年たってふたたび読み直した。というのも、著者はこの本より数年前(平成5年)に『酒乱‐米の生命が生きるまで』を出版している。『酒乱』を読む機会を得たことによって、なぜこの人物がいのちや共時性を語るのかがはっきりと分かった。つまり、 『死んでも生きている‐いのちの証し』という本は、『酒乱』に書かれた半生や経緯を踏まえた「続編」だと捉えるとわかりやすい。
そもそも人生はだれもが個人的であり独善的なものでもある。共時性現象は特別なものではない。だから著者が伝えたいのは個人的な事例そのものではなかった。それを通して垣間見える普遍的本質のほうであることを付け加えておきたい。
前に述べたとおり、人間が本来あるべき食に関して触れているのも特徴のひとつだが、この点はとても参考になる。食といのちに関する記述は、ほかの著書の中にも見られるが、この本ならではの特徴がある。植物と動物の比較や肉食と穀菜食(菜食)のちがい。中立的な視点からの考察であり、一方的な価値観の押し付けのような印象はない。きっと読者の思考にちょっとした波紋が生じるのではないか。
また、最近はほとんど使用しなくなったと思われる〝氣〟という文字。お米や稲を敬愛する気持ちから、本文中に〝氣〟の文字を常用していることからも著者のメッセージが伝わってくる。なお、ほかの著書には「気」となっていて「氣」の文字を使用している文は一箇所も見当たらない。ただ、お米に対する気持ちはどれも一貫している。
おそらく一般的な認識として「共時性」というテーマからは、だれも「食」を連想しないだろう。また、〝死んでも生きている〟といういかにもスピリチュアルなサブタイトルからも、「食」を連想する人は少ないにちがいない。しかし、本の表紙を飾る稲穂は、この著書の本質を象徴していると同時に、人間の、少なくとも私たち日本人の「いのち」のシンボルであるといっても過言ではない。
自然回帰の必要性が叫ばれるようになってから久しい。農業に挑戦する若者や定年帰農者、菜園やプランターで野菜づくりを始める人など、ずいぶんと関心は広がりつつあるように見える。私事で恐縮だが、自身も二十代前半からミニ田んぼと畑作に向き合ってきた。ところが、なかなか経験や意識が深まらず、付かず離れずの状態が続いている。いちばん身近な自然は毎日の食物であり、その生命の多くは田んぼや畑で育まれる。それを頭ではなく心で感じようとしてきたつもりだけれど、意志のぶれ、勉強と工夫の不足から、現実はなかなか絵に描いたようにはいかないものだ。
食と農は生きる原点であり、大切であることは言うまでもない。でもそれだけで人生すべてが満たされるわけではない。生活を維持したり向上させたりするためのお金も必要。また、現実問題としてお金がないと、時間的にも空間的にも制約がある生活の中では食や農にきちんと向き合うこともむずかしくなる。だからと言って、単純に「経済的な豊かさ=有意義な生活」ではないことはもはや明らかだ。
この作品が、そういうことに対する答えをくれるわけではない。ただ、人間の本質は社会や文化・文明が生み出した物事との関わりの中で生きている以前に、自然の一部としてのいのちであり、あらゆる立場を超えた「いのち」の視点では、だれもが等しく自然界のいのちに生かされている存在であることを思い出させてくれる。
霊魂についての文章は、一般的に暗くて恐怖心を抱かせるものが多い。霊現象に関するテレビ番組のたぐいは、その代表例だろう。いままで、「霊魂」というと死者のイメージがあまりにも強く、祟りや呪いなどネガティブで暗いものと結びつける先入観をもっていた。しかし、今では「霊」に対していたずらに恐怖や不安な気持ちをもつ必要はないと考えている。
今を生きている自分自身(あなた)の存在の本質こそが、肉体をまといその上に服を身につけている霊魂そのものだという。霊魂というと、我が身の外に存在し、外で起きる「現象」と考えがちだが、私たちのからだやこころに内在する事象だと納得できるだろう。
内は則ち外なり、外は則ち内なりという考え方がこの本の根底には流れている。つまり、自分のからだとこころの実態がそれにふさわしい縁を引き寄せるということだ。たしかに縁は非常に正直であり噓がない。だから、自分のこころをよごすこと、それを放置することの方がよほど怖いと言う。日々のこころを省みることのたいせつさをこころに刻むとともに、からだを本来あるべき健全な状態に近づけるため、毎日の食生活を常に見直し改めようという気もちをもち続ける動機になってきた。
何かの宗教ではないか、オカルトではないかと思うかもしれないが、そうではない。「偶然の本質とは何なのか」という問題は、「いのちとは何なのか」という命題ととても深く関わることがらだということの証だと言える。
たとえノンフィクションでも、生命世界の話を誤解や疑念を抱かせないよう読者に伝えるのはむずかしい。著者本人の驚き・興奮・感動を伝えようという試みが空回りして読み手がしらけることもある。何しろ共時性現象の話ゆえにそれも仕方がない。一方、フィクションは伝えたい内容の本質をかえって浮き彫りにするようだ。
しかし、初見の感想はそれとは全くちがうものだった。事実を元にした考察とは雰囲気がまったく異なる脱力感。購入して読み始めたものの、不信感を抱いた。著者は一体何のために生命世界を想像の物語で描いたのかと。実は、勇気を振り絞って、著者本人に連絡を取り「物語に何の意味があるのか」という疑問を率直にぶつけてもみた。理論物理学者のデイヴィッドボーム氏の著書や河合隼雄氏の著書の中にある、科学者にとっての「想像」という働きの役割を記述した部分に、その後まもなく偶然出会うという体験もした。それらの結果、自分の頭の中にある「想像」に対する先入観が、まちがいなく揺さぶられたように思う。
さて、この物語。読み手がどう理解するかである。学者や作家ではない人による想像物語だと簡単に切り捨ててしまうか、本質的なメッセージが潜んでいると観るか。シリーズ全四巻のうち、本書が最も量的なボリュームが少ない、いわゆる短編。しかし、内容は濃く、ある意味とても意味深長で本質的メッセージが秘められているように思えてならない。本文中には、『ひふみ神示(日月神示)』も登場する。その内容について詳しく述べているわけではないが、現代人にとってそのメッセージが非常に大きく重いことはご承知のとおり。本作を通じて気づきを得られる人もいるのではないか。残念ながら私が最初そうであったように本質をよく理解できない人もいるかも知れない。
著者本人は、岡本天明絵画展を観るために訪れた広島の地で、偶然ひろった折鶴をひらいてみたところ、とつぜん同氏の出生地名〝倉敷市玉島〟という大きな文字が現れたという実際にあった共時性エピソードをもとに、縁の裏舞台描写を物語に託したと思われる。ときどき挿入されている随想にも、他にはないこの本の特質があると私自身は考えているのだが、この本をお読みになった方はどうお感じになるか。