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図・写真を除く文章のみの掲載。

神秘の大樹だいじゅシリーズ第三巻
神秘の大樹
 文字・数・色で証す新次元

 

 

 

カササギといのちの会話

 

 北の国に酒田という港町がありました。そこには、日本海を一望できる小高い丘があって、そして、日枝ひえの森が茂っておりました。

 ある日のこと、日枝の森に、これまで見たこともない遠い国からきたカササギという鳥が家をつくり息子と娘の子宝に恵まれました。

 カササギという鳥は、カラスくらいの大きさですが、ピカピカ光る黒色と柔らかい感じの白色のきりっとしてとても品格のある鳥です。

 子どもたちは日増しに成長して、いよいよ巣立ちの日を迎えることになり、息子のカササギは、目をかがやかせて体一杯で呼吸をしたかと思うと颯爽と力強く飛び立っていきました。

 息子のカササギは、南の国の山九山さんきゅうさんという山の鶴見の森へと飛び立っていったのです。

 後に続いて、娘のカササギもやさしく風を切って少しはなれた川向かいの高見の森へと飛び立っていきました。

 鶴見の森に移った息子のカササギは、ある日のこと、山の主さまから呼び出しを受けました。息子は、そこで一大決心を迫られました。山の主さまからは、今度隣国の魂の森(ソウルの森)に行くようにと言われたのです。これからは、広い世界を自分の目で見て学ぶことが大切である、大いに魂を磨いて来るがよかろう、と言い渡されました。

 少し迷いもありましたが、息子のカササギは、主さまに、その決心のついたことを伝えました。また、そのことをいち早く日枝の森の母さんにも伝えました。

 いよいよ、隣国の魂の森(ソウルの森)に出発する前日のこと、息子のカササギから、明日の夜に飛び立つという携帯メールが届けられました。それを受けて母さんたちも鶴見の森に飛び立つ準備で忙しくなりました。

 母さんはどうしたことか落ち着きがありません。あちらこちらと捜し物をしていたのです。やっとのことで紫色の長靴を取り出してきて、これを履いていくというのです。驚いたカササギの父さんは、

「何もいらないじゃないか、普段着のままでいいよ」

と言うのですが、母さんが言うには、

「父さん、実は息子からテレパシーが入ったんです。あの子は何も言わないけど、母さんの喜びそうな紫色のジャンパーを着て出迎えようと考えていたようなのです。私もあの子をきっと喜ばせたいから紫色の長靴を探して居たのよ」

と言うのです。その話を聞いた父さんは、ただニヤニヤするばかりでした。

 その夜無事に鶴見の森に到着してみると、息子のジャンパーと母さんの長靴は、紫色でぴったりと一致してキラキラかがやき合っていました。カササギの母と息子はお互いに言葉には出しませんでしたが、ジャンパーと長靴の紫色のことは、以心伝心で正確に伝わっていたのでした。

 感激の出会いとなった見送りも無事終えて、母さんたちは日枝の森に帰ってみると今度は、娘のカササギから携帯メールが届いていました。「明日の朝お母さんに会いにいきます」と言うのでした。

 娘のカササギはその夜、少し化粧を直して、母さんに会うため美しい黒い髪を太く結わえて、三色のバンドで締めていくことにしたのでした。赤・青・黄色の三色のヘアーバンドを枕元において休みました。

 するとその夜、日枝の森の母さんには、強い胸騒ぎのテレパシーが入ってきました。赤・青・黄色の三色が、心の中で光り輝いていたのです。母さんは、娘にはきっと嬉しいことがあったに違いないと思い、それじゃ娘をあっと驚かせてみようと思い立ち、赤・青・黄色の三本線の入ったズボンをはいて待つことにしたのでした。

 翌朝、それとも知らずにやってきた娘のカサザギは、母さんのズボンを見るなり目玉を大きく開いて飛び上がって喜びました。赤・青・黄色のヘアーバンドとズボンの三色の線がぴったり合うことになり、どうしてこうなるの? と、母娘は心の通い合いに驚き、うれし涙がこぼれそうになりました。その喜びは、日枝の森にもいっぱいひろがっていました。

 やがて日枝の森にも冬がやってきました。寒い吹雪の日々がつづくようになります。

 カササギの父さん母さんは、息子と娘の巣立ちも終えて、生まれ育った九州の佐賀の森へと飛び立っていきました。

 

 

 以上の話は実話をモデルにしたものである。息子役の男性は、隣国のソウル市に一四年の駐在を終えて帰国した。娘役の女性は酒田市内のT子の話である。さらに、カササギの飛来は、平成二〇年六月一二日午後一〇時半頃、日枝神社境内で実際にあったものである。

 人の思いは深い意識の次元でひびきあっている。共振・共鳴・共時性現象は、現実生活意識の中ではなかなか気づきにくくなっているが、縁結びとなる出会いには、注意深くしていると、文字的・数的・色彩的ひびきの実態がわかってくる。

 心に描くこと、それも強く思うこと、一瞬でも思い描くことなど、これらの思いの形は異なっていても、この思いの波動はどこへ行くのであろうか? 地上はもちろんのこと、宇宙の果てまでも発信されているのではないだろうか。それがどこまで届くのかどうかということはわからないが…

 しかし、心が一瞬の光であればこそ大変な遠くまでも届くのは確かなはずである。人の心は、放送局のように同一同波のサイクルを出し続けることば不可能だ。そんな器用なことは不可能である。電磁電波のサイクルは、微妙なチャンネル操作でも、ちょっとのずれこみだけで電波が入り乱れて雑音としか聞こえなくなる。ましてや、人の心のサイクルを同一不動に持続するなんてことはできない。

 思い続けること、それを持続し続けることを果たそうとしても、ちょっとした心の動きでサイクルはすぐ狂ってしまう。人の心は、断続断片的で、心のサイクルの振幅がバラバラであるから、どのように相手にその思いを届けようとしても、対面しての会話の話ではないから、思いは空中分解して消滅する。だから心の波動は、さしずめ煙のように空中分解して相手に通じないことになる。

 ところが、万に一つその想いが通じるとしたら、それはあり得ないことでもない。人と人が互いに、心のサイクルが同一振幅内にある場合には、時としてそういう奇跡的なことが起こり得る。俗に言われるテレパシーなどはそうした例に入るかと思う。

 私たちが日常見聞きしているテレビ・ラジオなどの電信電波は、文字的になり象形的になり、数字になり色彩になり、音声となって目の前に届けられる。

 発信された電信電波は、それぞれの周波数で正確にシフト(転換)されて映像化される。それらを飛躍させて人間同志に応用できるかといえばもちろん無理であろう。なぜかといえば、人工機器のように同一条件下の継続維持が不可能なのが、人の心だからだ。だからといって、人の心には意思伝達が不可能かといえばやはり例外はあるものである。

 心という電磁電波(霊波)は、この世に大海の洪水となって乱れ飛んでいるのだが、ただそれが目にみえないだけの話である。

 人心から発せられる心の放送局は、地球に六〇億人の人がいれば、六〇億カ所林立していることになり、この波動が、もしもこの目に見えて、耳に聞こえることにでもなれば、この世は一歩も歩くことなどできなくなる。心の波に呑まれて溺れてしまうであろう。

 そうした混乱がなくて生きていられるのは、やはり、いのちの守りというほかはない。

 例えば、心の波を三大区分して、文字的表現の心、数的表現の心、色彩的表現の心としたとき、この世の空間はそれらの波動で超濃霧警報状態となるが、微妙な心のチャンネルの違いが救いとなっているのである。

 こうして、人の心の波動が全空間に実在する訳であるが、目に見えず、耳に聞こえず、五感には触れることはない。人の心にかぎらず、人工の電磁電波、生物たちの心の波動、地球や宇宙生命の波動、その他あらゆる生体波動に侵害されることもなく、こうして我々が生存できるのはやはり、いのちの守りというほかはない。

 だが、この我々の五感に感じられない波動でも、いのちの深いところでは、この世のありとあらゆる磁気磁波磁性に感応していると私は思っている。知らぬは表面意識にある我々であり、人間は知性オンリーとなり、深い意識はいよいよ遠くなるのだといえよう。しかしこれもまた、人間の心のパニックにならないための、いのちの守りというほかはない。

 やはり、いのちの世界には無駄はなかったのである。無駄と思えることでも有益であったり、有益と思えることでも実は無駄のようであったり、プラスがマイナスに、マイナスがプラスにと、いのちの絶対調和力は自在千万で、そして、絶妙にこのいのちを守りつづけておられる。

 

 

 

 

 

 

四・九問答

 

 ここは庄内平野という米の里。平野の中ほどには陽光山という霊山がありました。

 昔はその頂上に鶴ヶ城というお城があり、山の裾野一帯には数多くのお寺が点在しており、さらに山の中腹にはこの地方きっての禅寺がありました。

 ある日のこと、この禅寺に一人の若者が訪ねてきました。若者は母方の先祖の墓を捜し歩いており、この禅寺は捜し始めてからちょうど十二番目の寺でした。

 若者が墓捜しを始めたことにはそれなりの理由があったのです。

 母が亡くなったのは、昭和三九年二月二十一日(享年七十六歳)でした。生前何一つとして親孝行のまねごともできないまま若者は、母と別れたことを寂しく思っていたのです。

 それから二五年が過ぎた平成元年八月のこと、母が生前守り通してきて、今では無縁仏となっている先祖の墓を捜し出し、守り継ぐことがせめてもの孝行だと若者は思い立ちました。

 墓のことは何一つ母から聞いたことはありませんでしたが、陽光山一帯の寺院の中にあることだけはそれとなく耳に残っていました。

 そこで、母の戸籍を調べて、二百年くらい前の先祖を知ることができた若者は、それを頼りに四十数カ所の寺々を調べ始めたのでした。十一カ所までは何の手掛かりもなくすぎて、次の十二カ所目で、陽光山の中腹にある名刹にやってきたのです。

 若者が玄関で、訪ねた理由を和尚さんに伝えると快く応接間に通されて、和尚さんは奥のほうから、門外不出の過去帳を取り出してきてくれました。そして、戸籍謄本と一枚一枚突き合わせてめくっていると、矢のごとく若者の目に飛び込んだ四文字がありました。若者は「ありました!」と、和尚さんに力強く伝えたのでした。

 目に映った戒名と俗名、孝岳亮順居士 本多弥門、十二月廿日(十九)と記された本多弥門の四文字を見たのです。和尚さんは大変喜んでくれました。

 戸籍謄本には、明治三一年十二月十九日死亡(二九歳)とありますが、過去帳は一日ずれた廿日になっていて、右側にペンで十九と添え書きされていました。

 しかし相続欄には、亡くなった本人名が記されているので、これはどういうことかと気になった若者が、戒名の左側にあったペン字の添え書きを読むと、母の住所と、母がこの仏の娘であり、そして昭和十四年(一九三九年)九月墓参に来山して年は五〇歳也と明記されていたのです。若者が五歳のときのことでした。

 先代の和尚さんが温かく記録してくれていたのです。先代の添え書きと謄本が照合できたことで、この禅寺が菩提寺であることが確定できました。和尚さんは大変喜んでくれました。そして、そろそろその寺でも無縁仏と思える墓碑は一カ所に安置する予定であることも知らせてくれました。「その前でよかったですねぇ」と、改めて仏の思いを伝えてくれたのです。

 その日は、猛暑炎天下の八月二二日でした。若者は、戒名を片手に持ちながら頭上にはタオルで姉さんかぶりをして墓碑の一本一本と対面しました。

 さすが名刹の禅寺のこと、その数の多さに圧倒されました。傾いているもの、半分土に埋もれているもの、風化のひどいものと、家庭事情も若者に似て、よもや無縁仏となられるのだろうか。始めて二時間も過ぎた頃、流れ落ちる汗をふきふき、若者が見つめる墓碑のその戒名が、手に持つ先祖の戒名と一致することを発見したのです。「智明観光居士」と、しっかりとした刻みで残されていて、家紋の立ち葵も朽ちることなく残っていました。仏は母の祖父でした。

 その左側にはひとかさも小さく、文字の刻みは跡形もなく朽ちて浸蝕された海岸の岩のように荒々しく、ただ、墓石の姿を止めているだけの一本が隣りにもたれるように立っていました。いくら戒名を確かめようと見方を変えてもわかりませんでした。

 何を思ったか若者は、車からカメラを持ち出してきて望遠レンズに切り替えて、少し離れたところから覗き込んだのです。その一瞬、不思議なことに文字が浮き出したのでした。「孝岳亮順居士」と、どうやら読めました。そこで肉眼で見てみると先入観があるためか、戒名がなぞる感じでわかってきたのです。この墓は祖父(母の父)の墓に間違いありませんでした。これで先祖の墓を確定することができた若者は、母の思いを継いだ感激にひたっていました。墓の発見は、八月二二日午後二時十九分でした。

 祖父(母の父)の命日は十二月十九日、そして二時十九分に墓を発見したのです。祖父の魂が若者のいのちに生きて一緒の働きをしてくれました。声なき声が命日十九日と発見が十九分という数霊で、若者にその思いの真を示してくれたのでした。

 墓の発見は即刻和尚さんに伝えられました。そして、十九日の命日と十九分の発見という魂不滅のことを若者は真剣に伝えたのでした。すると、嬉しいことに和尚さんは、自分も「数字が好きなんだ」というのです。「四と九が大好きなんです。欲(四・九)が好きでねぇ」

 

 さて話は意外な方面に発展したので、ここからは話を切り替え、四・九問答(欲問答)に移行する。

 仏道にある和尚さんから欲(四・九)が大好きという話を聞いた若者は、「あれ?」と思いを巡らし、「待てよ、これはすごい含蓄のある話だ」と感じた。仏道にある住職たちにしてみれば、普通なら表面を飾って欲を否定的にとらえて言うものだ。欲こそ煩悩の元凶のごとく説いてくるものだ。煩悩解脱こそ仏の道とばかりに説教をする。

 しかし、ここの和尚さんは違った。どうも心の扉が全開しているようなのだ。裏も表もない。欲は、煩悩どころか、欲を全開するところに人の道があるのだと、和尚さんの話から若者はそう受け取っていたのだ。

 何も飾らない大悟の世界にいる和尚さんだと思った若者は、和尚さんの真意をさらに掘り下げようとした。するとその時突然どかんッと頭上に喝が飛んできた。

「これ、若者、欲とかけてなんととく!」

こうして欲問答が始まった。

 和尚さんは、若者が欲を俗人に並べて考えているかどうか、試してみようと思ったのだった。色欲、性欲、権欲、金欲、物欲、その他もろもろの汚れ多い欲心にまみれているとでも思ったのか、若者の返答次第でそれがわかるのだとばかり、禅の問いを振り落としたのだった。ところが若者は、そんな思いで和尚さんの心を受けていたのではなかった。含蓄深く、真の仏道をゆく大和尚と受け取っていたのだ。若者は迷わず答えた。

「欲とかけて『ミロク』と解く」

と発した。四×九=三六と、数の魂で答えたのだ。

 それを受けて和尚さんは、

「その心は!」

と詰め寄った。すると若者の口から出てきた言葉は、

「その心は、弥勒菩薩みろくぼさつと解く」

とわだかまりなく答えた。

 弥勒菩薩は、仏の王道をゆく仏道のお方と思った若者が、「四と九(欲)が大好き」という和尚さんを前にして、先祖の墓発見の喜びとともに祝いあう四・九問答であった。

 欲は希望の原動力! 明日への原動力! あれもしたい、これもしたい、生きたい死にたくない、こうしたいああしたい、無心になりたい、無欲になりたいと、食欲を筆頭に、生きることすべてが欲の化身といえる。そして人は、そうした避けられない欲心の反動反発のしっペかえしもよく知っている。すなわち、欲は心の両刃の剣でもあるのだ。

 しかし、欲こそ悟りへの道、煩悩こそ悟りへの道、人生の道は欲街道なのだ。欲あればこそ文明が開けてゆく。欲こそ生きる原動力になるのだと、名刹の和尚さんは、若者にひびかせたのであった。

 それから時は流れ、墓発見から半年が過ぎた三月三一日のこと、朝刊に、陽光山の禅寺のことが紹介されていた。早速妻に「欲の好きな和尚さんが出ていたよ」と伝えると、すかさず妻は、「お父さん、今九時四分だよ」と反応した。

 四・九と九時四分は表裏一体となって、ひびきの数霊の流れとなっていた。それは仏の意志なのかもしれない。

 いのちの流れの中は常に、表裏一体、融合一体の世界になっている。そこは、心も物質も融合一体、物心一元一体のいのちの本流の世界と理解する時、四・九も、九時四分もその発祥地は、いのちの底流からの調和の光ではないかと私は、そのいのちの世界に圧倒されていたのだった。

 数霊こそ調和の原動力! いのちの原動力! というものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

宇宙船アポロ一三号一三のジンクス

 

 宇宙への限りない夢を抱き、その実現へ向けて、人間の英知を結集した宇宙開発は、常に、危険と背中合せの決死の冒険でもある。
 月着陸船アポロ一三号は、爆発事故を起しながらも、死を超越しての冷静さで見事生還を果すことができた。だが、その蔭には、人間の知恵を寄せつけない宇宙の一大意識性と、人間の心性エネルギーの共振力を感じざるを得なかった。

「実録〝アポロ一三号〟生還への記録」が放映されたのは、平成七年八月二六日のことである。そのテレビ映像から得た資料を基に、数霊〝一三〟を浮き出してみた。

 外国では〝一三〟という数字を縁起が悪いと言って、嫌うジンクスがあるそうだ。ところが、その〝一三〟という数字のせいかどうか、数字的に見ても、敬遠されたとしか思えないことが起きた。

〝アポロ一三号〟

を打ち上げたのは、一九七〇年(昭和四五年)四月一一日

〝一三時一三分〟

である。見守った市民は、それまでのアポロ打ち上げからは激減した、二〇万人と報道されている。

アポロ一一号では七〇〇万人
アポロ一二号では二〇〇万人

ということになっている。

 アポロ一三号は、打ち上げ一ケ月前のテスト中に、酸素タンクの異常というトラブルが発生し、一週間前には、控え搭乗員に風疹が発症したため、二人が交代するなどのアクシデントが起きている。

 また、打ち上げ上昇の際には、第二段ロケットが、二分ほど早く切られるという事態も起きている。テレビ中継なしの打上げであったが、飛行開始五四時間後の

〝四月一三日〟

漸く中継された。そして

〝一三日〟〝二一時〇七分〟

支援船の酸素タンクが爆発し、そのため、

燃料電池〝一号及三号〟(一‐三)

の流量表示がゼロとなった。爆発から、

〝一時間三〇分〟

にして、指令船の電源は停止された。そして、二人分のスペースしかない月着陸船に三人が移動して、救命ボート代りとし、ロケット噴射が開始され、どうにか正しい軌道に乗ることができた。

 電力と水と酸素の異常危機の中で、地上の宇宙センターと、乗組員は、一丸の英智によって、決死の救助に向かい見事大気圏再突入ができることになった。

 突入一六時間前、乗組員は冷え切って霜で被いつくされている指令船に戻り、再突入一時間前に月着陸船を切り離し、時速三万八千キロで突入した。大気の摩擦で炎に包まれ、地上との交信は、

〝三分一〇秒〟間

途絶え、無事着水したのは、

一七日〝二時〇七分〟

であった。以上のことを列記してみよう。

 

アポロ一三号

一三時一三分 打ち上げ

四月一三日 テレビ中継

一三日 二一時〇七分 事故発生

一号と三号(一-三)燃料電池ゼロ

爆発後一時間三〇分 で電源停止

三分一〇秒(=一三)通信途絶

そして、

四月一七日 一二時〇七分 無事生還

 

 ここで顕著なのは、やはり〝一三〟という数霊である。ポイントと思われるところで〝一三〟の数霊が動くのだ。

〝一三〟がなぜ悪いのか。一三の和数一+三==死とでもいうのか。

 この世に存在するものは、すべて存在価値があるから存在するはずだ。それが、見えても、見えずとも必要な存在だから在る。これが自然の考えといえる。

 たとえ、それが不吉と思われるものでも、元々はそうではなく、それは人間の心のかかわりの過程でそう仕立て上げた可能性が強いと考えられる。

 生命界は、絶対調和力であることから考えれば、すべては、調和への発現と思っている。この世の存在は、皆、調和のための不可欠のものばかりと思えば、初心にかえって考えることもできるし、〝一三の数〟は不吉だと、ジンクス化することもないはずだ。

 一方に、共振共鳴のエネルギーが増幅傾向にある時、当然にして、対極のエネルギーが発現するようになっているといえる。

 これが、絶対調和力という生命現象だと私はみている。

 一三の数が、元々調和力の対極エネルギーとして発生したとしたなら、一方の対極にいる者にとってはいかにも〝悪魔〟にみえるかもしれないのだ。

 ゼロの慣性場に招く〝調和現象〟は、人間なら必ず〝苦〟を伴うことになるだろうし、一方、増幅波動を招く、〝共時現象〟は〝快〟を伴うはずだ。

 むしろ、〝一三〟から見る対極こそ「悪魔」であるかもしれない。そんなことは、水かけ論であって、〝一三〟は、大変重要な働きを持つエネルギーであると考えられる。

 むしろ、一三を敬遠する〝おびえの心や、その不安波動〟の増幅作用(共時現象)こそ恐ろしいものだ。

 不安エネルギー(人間の不安意識)が、共振共鳴して、莫大な共時エネルギーに拡大することこそ、災いのもととなるのではないか。

 共時現象は、両極に働くエネルギーの増幅作用であって、善くも、悪くも働く現象である。そのため、〝一三〟のジンクスを打ち破らない限り、一三は魔の神に永遠と祀られてしまうことになる。

 アポロ一三号の爆発事故も、あるいは、この一三の数霊を媒体とした一大群集の不安波動が、トラブルの一つの誘因となったとしても不思議ではない。操作管理は、あくまでも人間の領域であるからだ。

 その逆に、〝一三号〟の成功を祈り、アポロ一一号、一二号の如く、七〇〇万人、二〇〇万人と祝福パワーを送ったとしたなら、その共時波は無事成功へと導く力の一つとなったのではないだろうか。

 人間の意識波動も、拡大化すると宇宙規模の〝意志的作用〟ともなりかねない……と、夢みたいなことを真剣に考えてしまうのである。

 今一つの数霊

事故発生 二一時〇七分

無事生還 一二時〇七分

にも、大きな宇宙的な意志を感じるのである。

 

 

 

 

 

 

心はきらめく生きもの

 

僕の心の中で生きていれば
死んだことにはならない…

 

と話をしたのは、小学一、二年生の男子であった。平成二年十二月二一日金曜日、朝のテレビを見ていたときのことである。

 往年の大女優・木暮実千代(平成二年六月十三日亡享年七一歳)の死について、孫息子がこう話していた。肉体は消えても、霊体である心は消えませんと言い切ったことは、死んでも生きている命の証しを探索する者としては、実に貴重な言葉であった。

 すでに、二〇年近い昔の話である。ノートのメモ書きをここに転載したのは、大人から霊魂にかかわる話題が出ると、とかく嫌われがちなものだが、子どもの口から言われるとすんなり受け入れてくれるからである。

 七、八歳の子どもが、「僕の心の中で生きていれば死んだことにはならない」と祖母の死について話したということは、「心は生きているんだ。永遠のいのちの中で生きているんだ。それぞれの思いの中で生きているんだ」とはっきり自覚していることを話してくれたのだといえよう。

 共時性現象(俗称=偶然の一致)について深めていくと、その体験を重ねるごとに、この世から「偶然」や「必然」という表現が消え失せていく。あらゆることにおいて、「当然」という一言が適切ではないかと思うようになった。

 共時性現象は、あらゆる縁結びの道明かりになっているといえる。縁は、その人の運勢運命の道明かりとなり、刹那の出会いの縁が人生のターニングポイントになることが少なくはないのである。

 縁結び(出会い)ということを地上の現実としたとき、いわば外界で起きるその縁結びの一切を担当するのが魂の世界であり、目には見えない地下の世界(内界)なのである。それでいて深く広く、極言するなら宇宙大にもなるものだし、とてつもないエネルギーの充満する意識情報の世界だといえよう。各人の心の中では、昼夜を問わず縁結びの会議が開かれていると考えてみればわかりやすいかと思う。

 亡くなった方々の心ごころと、この世で蓄積してきた自分の心が合体して外界に押し上げようとしている。縁結びのメッセージを出しつづけているのだが、とかく今の自分はそれに気づかない。しかし、内界の心の表現(メッセージ)は、外界の文字・数・色のエネルギーを介して発信しつづけているのである。細大もらさず、些細なご縁の中にもそれなりの意志性のひびきがあると私は考えている。いってみれば、どのようなご縁にもそれなりの意味を含んでいるということである。

 一見当たり前でつまらないと思うことでも、その外界での現れ方にはそれなりの心の内界事情の絡み合いがあってのことであり、一人一人の心の色合いを持つものである。

 いのちの中に記憶された心の総合情報は、文字的・数的・色的なひびきに乗って、一種の触覚センサーの働きとなって、現実界で生きようとしているのである。いい方を変えれば、その心のセンサー(心の触覚)は、その人の運勢運命を開くカギを握っているといってもいいのである。

 どんな出会いにも、共振共鳴できるその心の同期的接点があるからだと私は考えている。出会いの奥深くにはもの申す魂の光がきらめいていて、その出番を待っているようなものである。

 毎日の暮らしの中で、全く関係ないと思えるそのときそのときの出会いの縁であっても、たとえその発現に歳月を要したとしても、必ずや心の中には触れ合う接点の因子があると私は考えている。「無関係の関係性」といってもいいと思う。無関係の出会いと思えたときでも、その関係性の心の因子が存在していたのである。

 自分の心にないものは、この世での実現性は限りなくゼロに近いのは当然であり、心にないものは実現性が薄くなり、心にあればその実現性は現実味を帯びてくるという当然のことが起こる。心の舟の舵取りは今の自分の心の向きでしかない。

「無関係の関係性」の出会いの縁は、大小強弱日々発生しているが、九九%の方は気にかけることもないであろう。

 

 平成二年一二月八日土曜日のことであった。一二月八日は、仏教界では、お釈迦さまが悟りを開かれた日として多くの催しで賑わう日である。

 この日数人で羽黒山に参拝しての帰り道、昼近くであったから、足を延ばして遊佐町吹浦にある「北海」という中華そば屋を目指すことにした。予定になかった思いつきの行動である。車の燃料切れのためガソリンスタンドで給油することになり、出てきた店員に目を向けた妻が、

「あれ、わたしの色とそっくりだよ」

 妻が頭に巻いていたネッカチーフの三色と店員の制服の色が、とても象徴的に合致していたことは誰の目にも明白であった。赤色、白色、紺色であり、さらに店員の左胸のネームプレートには「菅原あきら」と書かれている。こちらの苗字も菅原である。こんなことは一見何でもないことであるが、その引き寄せの糸をたぐり、ここに寄らねばならなかった行動を振りかえってみたとき、自宅を素通りしてまで中華そば屋に心引かれて足を延ばしたのはなぜだったのか。

「北海」という店のラーメンの味を知ってはいた。心の記憶(魂)には一点の明かりが灯っていて、その日のコースは微妙なかたちで描かれていたということである。

 そば屋を出てから帰りの道で、妻が菓子店に寄りたいと言い出した。立ち寄ったとき時刻は一時二八分になっていた。菓子屋の屋号は文屋ふみや、店主は菅原忠之という。今日は一二月八日の「一二八」。店到着が一時二八分の「一二八」。店主もこちらもともに菅原の姓である。そして、妻の名は富美子=フミコ、店の名は文屋=フミヤというひびきが強まっている。

 この日の行動の流れを一般的な常識でみるなら、羽黒山に出かけて、帰りは家を素通りして吹浦の中華そば屋に足を延ばし、途中スタンドで給油するという、まったく予定外の行動だったわけだが、それは現実の表の世界でのことである。その現実世界で流れている姿を現実化している内なる心の世界では、主人公(妻)の心の内面では、「いのちの予知性」とでもいうか、今日一日の動きができあがっていたことになるのではないだろうか。その道のりには、文字的に、数的に、色的にという三大エネルギーでの縁組みのあることすなわち、出会いのあることを示しているのである。今日の行動の絵図面が妻の心を通してできていたことにはならないのか。そうでないとするなら、それは即興的予知反応なのであろうか。

 この世には同姓同名は少なからずある。また、同名となればその数はさらに多くなる。しかし、いざこの足で探すとしたらまず無理というものであろう。インターネットなどの統計上の資料でアクセスするのではなく、足で探すことの不可能性。それをこの魂の世界では、いとも自然に楽々とそれを可能とさせてくれるのである。「ナポレオンの辞書に不可能はない」というが、それは言葉を操る誇張といえる。その点いのちの世界には本当に不可能はない。一人ひとりの全身に充満する総合意識(霊魂)と、いのちの絶対調和力による出会いの縁結びであれば、何もかも当然に起こり得る可能性の世界であると思う。文字・数・色を介して、魂のひびき(意志性)を明かすことのできる当然の流れを示す道明かりであると考えている。

 ところで、この日一日は妻の内界を核とした魂の結び合いであったが、心の世界のサイクルは半月後の一二月二四日月曜日と三〇日日曜日の両日にかけてもなお、続いていたのであった。意識の流れは我が身の中で連綿と続いていたのである。

 一二月二四日月曜日に、気仙沼市大島に出かけた所、若いカップルと出会った。二人のうち男性の名は田中あきらさん。出会いの場所は亀山山頂であり、対岸の本土には鶴ケ浦があって鶴と亀のめでたい懸け橋となる思い出の場所であった。

 一二月八日に給油で出会った菅原あきらさんと、一二月二四日に大島の亀山で出会った田中あきらさんの両名の間は、なんら関係は見当たらないが、私たちの心の内界には、情報意識としてインプットされている。一度組み込まれた外的情報は、細大漏らさず意識層の記憶ピットの中に蓄積され、魂の一員となって、心のいのちとなり、息を吹き返すことにもなる。

 一度心にインプットされると、その出会いの記憶は無意識層の中で縁結びの出会いのセンサーの一員になる。その情報の善し悪しを問わず自己形成の一員になってゆくのである。だからこそ心の環境がとても重要になるのである。心の向き方で人生の運勢運命の方向性もおのずと定まってゆく。自分を見つめることの大切さがわかる。

 一度でも出会うこと、ふれ合うこと、一刻一瞬のご縁であっても、五感六感から吸収された意識情報は、一切合切自分の心の中に記録されることになり、その心の情報が心の世界で化学反応を起こして、文字的・数的・色的三大意志エネルギーに同化する。そして、目の前の現実世界に飛び出してくる。共振共鳴の磁気を帯びた意識性となって出会いの縁を結び出すのである。

 どんな心であってもいのちは、磁気・磁波・磁性体であるから、心は善くも悪くも、きらめく生き物なのである。

 

 

 

 

 

 

家紋で示す魂の実在

 

 かねてより妻は、上杉鷹山公に想いを寄せていた。殿の妻、ゆき姫には殊さらに深い想いを寄せていた。いつの日か、米沢の上杉神社と上杉家廟所を参拝できる日を、心待ちにしていたことを私は知っていた。

 ちょうどその頃、山形新聞夕刊一面で、県内の温泉めぐりの記事を連載していて、それを私はスクラップしていた。その中で、特に心を引いた山峡の温泉が心に残り、それも、妻の想いと合流できる米沢市であることから、早速訪れることになった。

 平成六年八月三〇日早朝五時一分、自宅を出た車は、一路米沢へと向かった。上杉鷹山公経由滑川なめかわ温泉行きのコースで走ったのである。

 妻は、米(稲霊いなたま)の意識レベルに在り、私も、米はいのちの光と尊く思い、米の種籾たねもみを肌身離すことはない。ともに、米は、心の共鳴磁場として一際敬虔けいけんな思いの中にある。

 上杉鷹山公は、江戸時代随一の名君ともいわれており、いのちを守る米については、凶作に備え、城下や村々の蔵に、稲籾のままの備蓄を果たし、天明の大飢饉でも、一人の領民をも欠かすことなく救ったと伝えられている。

 鷹山公の遺影を残す坐像は、彫刻家、米林勝二、鋳造者は、境幸山が製作に当り完成されている。

〝米〟を心の共鳴磁場に持つ者にとっては、

米沢の〝米の文字〟も、

鷹山公の〝米〟に向けるいのちの愛も、

坐像担当の、米林勝二の〝米の文字〟も

ともに、いのちの米に向ける熱い魂のひびきで結ばれていると思われる。

 さらに、上杉謙信公家訓〝一六ケ條〟は、米の数霊かずたまシンボル(八八=一六=七)の〝一六〟に、共振共鳴し、やはり、〝米〟との共時性と見てよいのでは、と、秘かに思ってみた。

 また、上杉家の家紋は、

 〝竹に雀〟
であることを知り、雀とは、また、米にとって縁深い波動を感じさせてくれるし……いよいよ、魂の共振を深めたのである。

 上杉家を離れ、一路温泉に向けて走った。温泉は、深山幽谷の自然美に抱かれ、約二二〇年前、上杉藩第九代、上杉重定(鷹山公の妻、幸姫の父)の許を得て開湯され、山峡のいで湯として多くの人々に親しまれてきたといわれる滑川温泉である。

 温泉旅館、福田屋に到着し、第一号室に通され、中に入ると、思いは一気に爆発することになった。

 鷹山公の魂が、目の前に居られるとしか思えない現象が発現したのである。あまりの驚きで仲居さんに尋ねてみると、

「この部屋(第一号室)だけにこの座布団が敷いてあって、他には、一切使っておりません」

という。座布団には、花が咲いたように、

 〝竹に雀〟

の家紋が織られていたのである。〝竹に雀〟の家紋を持つ上杉鷹山公とご縁いただいたのは、つい先程のことである。

 さらに、布団カバーには、
 〝No.一六〟
と印されていて、米の数霊シンボル〝一六〟[八八=一六]と共振し、上杉家〝一六ケ條〟家訓とも共鳴するではないか。

 次々織りなす魂のひびきは、広く深い普遍の世界、いのちが輝く普遍の世界から鳴りひびいてくる。

 また、気づいたことの一つに、鷹山公の坐像製作担当者〝堺幸山〟の名前にも霊妙なるいざないを感じたのである。

〝幸姫の「幸」と、鷹山公の「山」〟と、殿夫婦の各一字を合わせると、〝幸山〟となるではないか。  

 ここにも、文字を共鳴媒体としての魂のひびきを感じ、胸の高鳴る思いが続いたのである。

 

 

 

     

       

 

 

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