生命現象の根源
(リンク:ページ内)
以下の一節は、『酒乱‐米の生命が生きるまで』(菅原茂著、MBC21)という本からの抜粋です。かつて父子二代にわたり家族を巻き込んで酒乱を開花させてしまった男性が、苦悩の末ついには男女の愛を超越した妻の深い生命愛に守られながら、やがてじぶんのいのちに目覚め、夫婦で新たな生き方を再出発させるまでの道のりを一冊の本に記しています。
(中略)
ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。
(中略)
妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。
(中略)
心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。(後略)
出典
『酒乱』地獄期「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」一一〇〜一一三頁
時として、じぶん自身の人生や人間関係に不調和をもたらすこともある心。概して心の問題はとても根深く、それに打ち克ち、改心するのは容易なことではありません。それでも、望ましくないと感じることができるからこそ、葛藤したり苦悩したりするわけで、本人に自覚がなければ、相反する心のジレンマに苦しむことすらないのだろうとおもいます。
これは、性格がそうさせるのでしょうか。それとも道徳的な行動規準をもっているかどうかの問題でしょうか。いずれにしても、がんじがらめに自分の気持ちを縛ったり押し殺したりしたところで、根本的な解決にはなりません。かといって、欲望や感情をむき出しにした生き方にも問題があります。
右の抜粋文から読み取れるように著者(夫妻)が指摘しているのは、「自我」と言われる意識次元だけを問題にしていても解決しないという点です。「人霊」あるいは「食物たち」「自然界の生かし続ける生命」といった表現が示す〝声なき声の意識〟次元にまで気を配らねば「到底太刀打ちができない」世界であることを述べています。
(注)
『酒乱 』黎明期「輝け、人生の扉開き」二二八頁から引用。
普段、じぶんの心だと思っている「心」。いっぽうで、じぶん自身の願望や意志および意思の方向性・質・波長と重なる霊的なエネルギーが、心の世界において、発信したり共鳴したり増幅したりしている、それが心の実相であることを、共時性現象は暗示しています。心は、その人の内的な性質に共鳴してあつまる霊的磁場であり、あらゆる生命の「思い」が混在する生死一体の世界である、ということです。その心的かつ物的な状況証拠が、共時性現象(=シンクロニシティ)だと言えます。
心には、みずから何かを認識しようとする能動的な性質だけではなく、心の発生次元のように制御できない受動的な性質があります。無意識的に思い浮かぶことがら(=心の発生)は、霊魂との縁とも関係がある、ということです。それゆえ、心を改めるというのは、心の世界における霊的な縁が変わらなくてはならないので、そう簡単にできることではありません。
とはいえ、自分の心の習性や癖と向きあい、そこから抜け出そうという意思と行動を持続し、新しい心の習慣を身につけることこそが、心を改めるうえで重要であることにかわりはありません。ただ、この文章の冒頭でも述べましたが、これは人間にとってほんとうに根が深い問題です。
もちろん、望ましくないことばかりではなく、先人の魂、亡きいのちが、道あかりを灯すように応援してくれていることを、共時性現象は気づかせてくれます。国籍や立場、血縁関係などを超える意識エネルギーは、まさしく愛情です。心にはそういう奥深く神秘的な一面があります。
私たちは、基本的な生命活動をすべて、体の精緻な働きに依存しています。体内の微視的領域はだれも立ち入ることができない、いわば「聖域」。たとえば「食は大事だ」という思想は一見単純ですが、自分の意思で選んで口にした食物は、いったん飲みこむと、あとは体にゆだねるしかありません。これが真実です。
わたしたち人間の生命維持が食物のおかげであることは言うまでもありませんが、その消化吸収から排泄までのすべてを、まるで「自動的」であるかのように処理しているのは体です。はたして体は、遺伝子に組み込まれた情報に従って動き続けているだけでしょうか。体内でおきている化学反応や物理現象の実際は、諸条件に沿って機械的・規則的に起きているというよりは、「自律的」におこなわれているようでもあり、とても神秘的です。
ところで、人間はなぜ食物を食べるのでしょうか。おそらく答えは空腹や食欲を満たすため。では、なぜ食べなければ生きられないように、いのちはできているのでしょう。まるで、何を食べるかという選択の自由を与えられ、意思を試されているかのようです。
というのも、基本的に、体質は先天性のものですが、その現れとしての健康状態は決して固定的ではなく流動的で、実際に日々の食生活が健康状態を左右します。ゆっくりと年月をかけて、しかし、まちがいなく変化します。しかも、私たちの体は常に変化し続けているため、特に病んではいなくても、その改善や向上にこれでよいという終わりもありません。
体は、まず前提として食物の力を借りるしかありませんし、それが最も自然な姿です。にもかかわらず、私たちは体内における食物の行方が見えないため、食に対して適当になりがちです。じぶんの生命全体に関わる問題として深く考えず、自律的ないのちの営みに任せっぱなし。体のなかでどのようなことがおきているかを意識することは、ほとんどありません。じぶんの体の見えざる真実へのまなざしと気づきは、心身を調和・統合できるかどうかと密接に関わるとても重要な課題だと感じます。
体質が変われば、それにともなって自然に心の質が一変するかといえば、それはあり得ないと考えています。体と心は機械的な関係ではありません。そもそも体質は気質と同じく先天的特徴だとすると、それが変わること(変質や転換)がありうるのかという疑問も若干あります。たとえば、食生活を一変させた結果、体質転換を想像させる体の大きな変化を経験する場合です。それは体質の現れである健康状態の改善であり、体質転換ではないという見方もできるのではないかと、みずからの経験を振り返って感じています。
では、食習慣を変えることで起きる健康状態の向上や改善は、心に影響すると言えるでしょうか。食習慣の変化による健康状態の向上や改善が心に変化をもたらすというより、意識の改善なくして健康状態の改善はないと考えています。何をどう食べるかは、食物と体に対する認識の仕方や態度の問題と切り離せません。したがってそれに応じて、健康状態の向上や一般的に言われる「体質」改善の可能性が開けるというのが事実ではないかとおもいます。
心のもち方ひとつで体の反応は変わるというのも、経験的に多くの人が実感していることです。これは、いま述べた点と共通していますが、それを理由に、食は大した問題ではないと考えるのは問題があります。心のありようがすべてだという思想は、体と食の軽視であり偏った精神論です。また、体や食物が心をつくるという考え方も、ある意味では短絡的であり、当人の意思の方向性を考慮していないとすれば偏見と言わねばなりません。体も心もそれぞれが意志性をもつ「いのち」という「本質」の投影だとすれば、「いのち」の視点に立ち返って見直す必要があるとおもいます。
生死に関係なく人間が「モノ」ではないことはだれもが納得しますが、食物も「いのち」であって「モノ」ではないという自明の理に対しては、概して非常に鈍感です。ひとのいのちは食の「いのち」なしに成立しません。それほど重要な食の本質(いのち)を軽視・無視することは決して些細な問題ではなく、心と体の真の健康と調和という人間の本質的な願いに逆行・矛盾する致命的な問題と言えます。
人間は、さまざまな感情や欲望によって、心の調和が乱れたり、不安定になったりすることが多いものです。この心の性質は、人類の知性が発達しているからこその宿命と言えるかもしれません。では、ほかの生きものはどういう「いのち」なのでしょうか。
以下に挙げるいくつかの文は、すべて『死んでも生きているいのちの証し』(菅原茂著、たま出版、下記参照)からの抜粋です。
動物は大地から分離して生きているから植物のような訳には到らず、ましてや、知性の高い人間は、生命情報感ではキリ(低)に属することになる。おのずから五感で感ずる外的心の情報にたよりがちとなり、(後略)(二五四頁)
生命界の情報量において、動物界は、植物には到底及ぶものではないと思うし、ましてや知性を最大の武器とする人間は、自然界の生命エネルギー情報キャッチにおいて極めて退化傾向にあるのではないか。そのことは、自然力、自然智という感覚から次第に遠のくことを意味する。(四七頁)
いっぽう植物は、
大地に根を下し、地球生命の体温の中で親の心(地球の心性波動)をしっかり受け取り、自然のリズムにそって共に生きる。(二五四頁)
また、地上では、枝や葉や幹によって宇宙生命の情報を微細にわたってキャッチしている唯一の生物であろう。(中略)いのちの最前線といえばこの植物達である…(後略)(四七頁)
知性の発達とともに「自然智」から遠ざかる傾向が強い人類は、自然界の食物を食べることで、いのちを調和の方向へと絶えず修正する必要があるのです。食の目的として、「満足感や満腹感を得ること」「栄養の補給」「体内浄化」など、ひとそれぞれに挙げられるとおもいますが、毎日食べ物を摂取する重要な意義は、いのちの自己調和にあると言ってさしつかえありません。
では、その「天地自然の普遍力」を何から得るかが問題になるわけですが、「〝食性〟によって生命情報は、ピンからキリまであり、例えば、菜食系の人、穀菜食系の人、肉食系の人では、その普遍力に満ちた生命情報に大きな差が生ずる」(二五四頁)と同著書において著者は述べています。
食物の中でその生命情報力の高いものとしてはやはり五穀であろう。その中心をなす〝米〟が人間食の究極となろう。稲は、水性植物といえるほど水を好み、根も深く、半年間もじっくりと天地の生命力を吸収し、蓄えを実らせてくれる。 (中略)一粒の米には、天地自然の普遍力が宿っている。(二五四〜二五五頁)
もちろん、望ましい食生活をしていれば、万事安心というわけではありません。前に述べたように、いのちは物質的であると同時に霊的なものでもあるからです。じぶんの心の習性や癖を直視し、それを正す自覚、強い意志をもたないかぎり、いつまでたっても心の中で、相反するエネルギーや波長のギャップに葛藤し続けなければならないと言っていいとおもいます。
それならば、結局食物の力ではなく、強い意志の力がすべてではないかと思うかもしれませんが、どうもそうではないようなのです。わたし自身ずっと実感したいとおもい続けてきたことですが、米(玄米)中心の「穀菜食」にしたからといって、それだけで心が穏やかに安定するわけではありません。意志の強さはとてつもなく重要です。しかし、毎日の食がじぶんのいのち全体の方向性や質と無関係ではないことも、疑う余地がない事実と言えます。
食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の〝苦〟」をともないます。
この、〝いのちの調和作用〟によって起る現象を、〝調和現象〟と考えている。調和現象の特徴は、その、いのちの中心に引き戻される時発生する一種の〝苦〟がある。それは、ゼロ志向のため起るものと考えている。これに対し、共振共鳴の共時現象は、相似融合作用であるから、それは、エネルギーの増幅志向にあるため、一種の〝快〟を発生させることになる。(二五五頁)
人のいのちは物質体であると同時に意識体でもあります。この本質的性格は、生き物としての種類や姿かたちはちがっても、「食物」として口にしている「いのち」もまた、物質一辺倒の存在ではないことを示唆しているとおもいます。また、魂という意味での「心」は、肉体的な生死を超越していることを、共時性現象が暗示しています。体は、心が作用するとはいえ、それを超える意思のような自律性をもっています。
次の一節は、たいへん示唆に富む興味深い視点です。(以下、『神秘の大樹 Ⅰ 偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」二一〇頁より抜粋。)
心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。
食も心も体も、人がつくる「もの」ではなく、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れです。出現する根源(根元)の世界は同一、全一であると想像できます。以上のような理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的または因果的な作用や反応とはまったくちがう、響きあいだと考えています。
私たちは、人間中心の目線で、食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食物をじぶんの意思で選択する食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「もの」でしかないとか、欲求充足のためにむさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できるはずがないことを、実感として気づかされています。じぶんの体と食物への敬意・慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。
さいごに、この文章全体の冒頭に記した『酒乱』からの抜粋文ですが、とくに印象的な部分があります。かつて酒乱地獄を経験した夫妻の言葉です。
(注)文中の★印と傍線はサイト編者によるもので、印象的な部分。
(中略)
ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。
そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。
人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。(中略)
妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。(中略)
まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。
こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。(後略)
出典『酒乱』地獄期「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」 一一〇〜一一三頁
「成仏できない」というのは、心(体)の中にいるじぶん以外の霊のことであるとともに、いずれは肉体を脱ぐじぶん自身でもあると感じています。私たちの生命は生と死とで、ひとつです。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは、本当のことです。〝天地自然の調和性と同化する〟あるいは〝食生命との融合〟という精緻な仕事をこなす体の存在が、いかに重要かを物語っています。
いっぽう、食に留意し健康状態は良好でも、心をはぐくむ意志が薄弱だと、心の問題を根本から解消することはできません。意志は最も重要です。しかし、それでもなお、人間の根深い心の問題は、「いのち」の本質的特性がかかわる問題であるがゆえに、「高尚な精神論や、宗教論」では解消しないのです。
わたしたちは心(気もちや思い)を最優先して体を置き去りにしたり、後回しにしたりする傾向がないでしょうか。心が苦しいときほど、それは顕著になるはずです。でも、もしかしたら、置いて行かれているのはむしろ心の方かも知れません。
この世にいることは体とともに在ること。この事実をしっかりと受けとめたいとおもいます。
(注)
「今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。」からの引用。詳細ページに、引用元の文章を掲載した。
体と心というテーマはとても深遠で、理論的な整理には遠くおよびません。上の文章は、一般化できる経験・体験を織り込みつつ、「いのち」を主題とする書籍の一貫した生命観・世界観を踏まえた、いわばインデックス。内容はかなり端折っています。
引用・参考元である『酒乱‐米の生命が生きるまで』『死んでも生きている‐いのちの証し』をはじめ、「いのち」に関する書籍の一部や文章全体は、下に示す各ページ「詳細」に参照資料として掲載。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧可能です。
▼本の中身を見る
菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
▼本の中身を見る
菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2008年
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2016年
この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊同の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2019年
夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。
▼図書館をさがす
デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年
『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
岡本三典/至恩郷/2007年
B4版の二つ折りの会報。258号は全3ページ。『日月神示』および『ひふみ神示』に頻繁に出てくる、円に点を入れた記号「」を間に挟み、『至恩通信』という題名で印刷されている。掲載した資料は、「宗教法人解散のお報せ」という見出しの文章終盤に記述されている部分。『日月神示』の発祥、法人発足や『至恩通信』発行の経緯、平成5年8月6日(1993年)広島における〝折鶴〟との出会いにまつわる話、抜粋した文章、御礼のあいさつと法人解散の祭典日時などが記されている。