共時性と因果性
一般的に誤解が生じやすい点を指摘します。
私が乗る市電の切符が、すぐその後で買う劇場の切符と同じ番号であり、その同じ晩電話の呼び出しがあって同じ番号が電話番号として再び言われるという事実に直面するとき、(後略)(『自然現象と心の構造』C.G.ユング著、p.10、海鳴社)
上のような偶然の一致に対して、当事者をはじめ、とくに第三者が陥りがちなのは、心的事象の見落としです。単に、二つ以上の外的事象の同時的な偶然の一致(この例の場合は番号の一致)が共時性だという見方です。もちろん、まちがいではありませんが、このような場合、たいていは、量的・確率的な問題としてあつかわれ、当事者の思いこみだという結論に至るのではないでしょうか。
心理学者・心理療法家である河合隼雄氏は、著書『宗教と科学の接点』のなかで、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏(米国)の見解を引用しています。
人間はものごとを知覚する際に相当な捨象を行い、顕在系として存在しているものを知覚する。ボームが人間は「つねに自然をレンズを通して眺めることによって対象物化してきた」と指摘したり、彼と対談した、ルネ・ウェーバーが「思考は思考を超えるものを濾してしまう濾過器である」というのを肯定したりしている(p.57〜58)
当事者であれ、第三者であれ、目に見える現象だけを対象にしているとすれば、共時性現象の本質的条件として不十分です。共時的なことがらが発生するよりも前の、またはその時の潜在的・本質的な意識と、できごとが象徴する意味との関連に目を向けてこそ、当事者や第三者にとって価値があるかどうかが判断されるべきです。 それらは客観性をもたない主観的なものであるという理由で排除しがちですが、そもそも「心」が関わる事象から「主観」を排除し “客観” で語ることが本当にできるのか、大いに疑問です。そこにはある種の矛盾があるような気がします。
また、その意味が仮にとても個人的なことがらだとしても「無意味だ」「価値がない」と断じてしまうことには疑問があります。一般的に当事者にとって意味のあることが、第三者にとって無意味に思えるのは、第三者自身には関係ない情報である上に感情移入できないからであって、それはある意味当然です。虚偽や作り話ならば論外ですが、ひとつひとつの現象・事例に対し、第三者が表面的・一面的に見て意味づけや評価を下すことは果たして公正な見方でしょうか。
言動を決定しているひとりひとりのさまざまな心が、個人的な出合いやさまざまな結果を生んでいる点は疑う余地がありません。つまり、価値があるかどうかは、目に見える部分以上にその背景など目には見えない、しかも個人的な部分にあると言えます。(下の資料はその一例)
※イ「客観と主観」→
この日は一〇月二〇日に亡くなった妻の母親の月命日で、二〇日の数霊が波のように寄ってきた。
出典『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「思えば寄せ来る文字と数」▼
科学の世界で電子工学分野の活躍は目覚ましいものがあり、電子機能や通信機能によって、この世は驚異的な時代革新を遂げている。
その成果は生活全域までに浸透し、情報の氾濫に溺れそうにもなる。無視できればいいのだが、その濁流に呑み込まれている現状の中で、どうしたらいいものかとその恩恵に困惑することは贅沢な話かもしれない。
これほどまでに科学力を発展させてきた知的人類という生命体とは一体何物なのかと、ふと、ファンタジックな疑問にぶち当った。
ここで唐突なことを言わせてもらえば、この世の一切の生物は、地球がつくった生命ロボットのようなものではないかとそんな思いにもなってくる。ロボットならば地球の思いのままになるのではないか。
地球がつくった地球生物は、その生命ロボット別に、姿・形・心までもそれぞれの特性を持たされて、この地球上に生かされ続けている。そこに一体どんな目的があるというのであろうか。地球は生命ロボットをつくり上げて、さらに心までも吹き込んでいる。
その心は、地球自身の心であろうし、また、身体構造も地球自身のエネルギー構造を凝縮してつくられたように思えてならない。特に人類には知性を吹き込んだ。だが、今ではその知性が独り歩きしているように見えてくる。生命エネルギーの中核をなす核融合エネルギーを、脅しと実戦に使い始めている。
地球のいのちは、われわれと一緒で、呼吸をし、エネルギーの食事供給をしている。そのエネルギー供給源は、自給自足の核融合エネルギーといわれているから、半永久的ともいえる食の摂取といえるであろう。われわれもまた、その延長線上にある核融合エネルギーを生体エネルギーとして生きているのが実態であると私は思っている。
地球の血を引く生物として、その生命エネルギーは、核融合エネルギーに準ずるものであり、その供給源は〝食〟と〝呼吸〟による化学反応ではないのか。
毎日の食の摂取によってこの生命が維持されているのはいうまでもないが、その食物は、口から入って胃、十二指腸、小腸に進みながら、それら三部門それぞれの消化酵素によってアミノ酸次元まで分解され、小腸の吸収細胞から血液に送り込まれて各細胞に届けられる仕組みになっているといわれる。
端的にいえば、食物から吸収した生命元素(原子)が核エネルギーに変換されるからこそ、小さな生命体として生きていけるのだと思うのである。核エネルギーを食として呼吸する次元では、地球も私たちも同じ次元なのであろう。
生物は地球と同じく原子構造になっていることを考えてみたとき、いのちたち同志の心の発信、受信活動は、光(電磁波)の次元で交差されているのが、この世の実態ではないであろうか。
人それぞれに、何かを考えたり思ったり、また、声を出したり無言であったりと、心の光を発しているが、その心は一種の電磁波(光)であると思うから、それが時空を越えた次元で同調サイクルの心を持った人々に一種のひらめきにも似た心の動きを作動させると考えたとき、私は、〝思えば通わす命綱〟となって、何事かの意志が伝わると思うようになった。
人はそれぞれの思いのエネルギーを持っているが、その思いは電磁波(光)となって発信するとして、その周波数のチャンネルに心のチューナー(同調装置)が合うか合わないかの問題であって、合えば、それとなく他者の心の何かを促すエネルギーとなるであろう。
心は微妙な電磁波(光)となって飛び放っている。自分の心の周波数に合わなければ、心は決して動かない。また、テレビやラジオのように、心を選局するなどという器用なことはできない。ところが、一心一念の時は、強い周波数の光を発しているから必ずや同調のチャンスがやってくる。
その一例を紹介してみたいと思う。それは、平成五年二月二〇日土曜日のこと。朝起きると妻は何やら忙しく動きだしていた。
「今日は二〇日でお婆さんの月の命日です。何を上げたらいいか…」
と言いながら、「あっそうだ白玉をあげよう」と決めたかと思うと、棚から引き出した一本の白玉粉を手に持った妻は、
「これは大山の白玉です。清子さんからいただいた白玉です」
と言ったものの、どこの清子さんなのかがわからない。何度も呼ぶから不思議に思っているとさらに妻は、
「横浜の荻野さんに送った米も清子さんからいただいたものです」
と付け加えた。今度は荻野さんに送った米の話に清子さんが出てきたのである。その荻野さんは私の大恩人。数カ月前に亡くなったのだが、一月二〇日生まれでこの日の二月二〇日に何かと通じるひびきが生まれていた。
こうして、朝から清子さんのひびきが続いたのだが、それから数時間後の昼下がりのことであった。久しぶりにやっと会えましたと言いながら訪ねてきた方は、左の手に小さな包みを持って立っていた。後藤清子さんであった。
「二回訪ねたが留守でした。今日で三回目です」
と言ってカステラの土産を渡してくれた。このカステラが動き始めたのである。
賞味期限が、平成五年二月二〇日というのはこの日のことである。朝から清子、清子と、妻は呼ぶようにしていた。すると清子さんがやってきた。そして、五年二月二〇日期限のカステラ。そればかりではなかった。清子さんは、
「私は昭和五年二月二〇日生まれなんです」
いよいよもって文字霊・数霊のひびきが積み上がってきた。
「今日、お父さんが出版社に原稿を送るんです」
と妻が言うと清子さんは、
「あら、うちの息子は出版社に勤めているんです」
と言った。共振共鳴の鐘は鳴り響きが止まなかった。
話の展開は何やらしり取りのようだ。何かが動けば何かが動く、高気圧と低気圧が互いに作用反作用しあうようにして調和を保つ天気図のように、人の心の中もお互いに、知らずに反応しあっているようである。人の心には共鳴磁場があって、そこには、三つの魂の引き出し箱があるようだ。
心は魂の引き出しに入っている
引き出しは三つある
文字の引き出しと
数の引き出しと
色の引き出しに分かれていて
外の情報を受けて考える心と
内からわき出る心があって
考えた心の情報は三つに分かれて
魂の引き出しに収められる
文字・数・色の三つに分けて
魂の引き出しに収められる
引き出しの中でピカピカ光る心
生きて生きて生きようと輝く心
そして縁結びの船頭となって
いのち船を進める三つの心
この日は一〇月二〇日に亡くなった妻の母親の月命日で、二〇日の数霊が波のように寄ってきた。清子、清子と呼べば清子が寄ってきた。
噂をすれば影とやら…
想いが通じてクシャミとなり
というように、俗言が人の心の真実を伝えているようである。
「思えば寄せ来る文字と数」一八七〜一九三頁
人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観 察者自身も「心」をもっている
出典『宗教と科学の接点』「第六章 心理療法について」「宗教と科学の接点」▼
(中略)西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである。もちろん、そのようなことが生じないように治療者ができるかぎり「客観的」な態度をとることにより、科学的治療が行えると考えられたこともあったり確かに問題を限定すると相当科学的に治療が行えることは事実である。しかし、「たましい」のレべルまで問題にするときは、科学的にはできなくなってくる。既に述べたように、治療者がいわゆる「客観的」な態度をとるかぎり、患者の自己治癒の力がはたらきにくくなり、治療は進展しないのである。
既に述べたような「開かれた」態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。その現象は因果律によっては説明できない。しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。そのことを出来るかぎり正確に記述しようとしたとき、それは「科学」なのであろうか。それは広義の科学なのだという人もあるだろう。しかし、それはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうか。つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受けいれようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。
宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。 (後略)
「第六章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」一九二〜一九三頁
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菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。