共時性と因果性
「われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」(『宗教と科学の接点』河合隼雄著、「第二章 共時性について」>「ホログラフィック・パラダイム」p.58)
※理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、人間の知覚世界を説明する際に使用した言葉「暗在系」(implicate order)。「物質も意識も暗在系を共有している」と述べた。
このように、心理学者・心理療法家である河合隼雄氏は、著書『宗教と科学の接点』のなかで理論物理学者のデイヴィット・ボーム氏(米国)のことばを引用し、人間の知覚世界を説明しています。それを視覚的なイメージとしてきわめて単純に表現すると、下の図のようになると考えられます。
図1:海に浮かぶ氷山の一角(イメージ)
ことばの上では、対立的もしくは並列的な印象のある因果性(ある原因がそれに対する結果としてあらわれるような性質)と共時性ですが、じつはそういう関係ではないようにおもいます。科学が一般的に「因果性がある」と認めているものごとの性質は、「氷山の一角」のようなものであり、私たちが認識していないところに、あらゆる現象の背景があるのではないでしょうか。
以下の3つは河合隼雄氏の同著書から抜粋したものであり、同じくD.ボーム氏の見解を引用しています。
自然現象は、その背景において、共時性の発生に関与する霊的(心の発生源的)な領域(ボーム氏の言葉を借りると「implicate order(暗在系)」)を共有していると考えられます。そして、とくに科学的な論理・法則によって割り切れる物理的な領域が因果性であり、科学的な論理・法則だけでは全貌をつかみきれない領域が共時性ではないかと考えます。
※関連「体と心の相関性」→
図2:因果性と共時性の関係(イメージ)
上の図2は、両者の関係をあらわした図1 “氷山の一角” を、いわば “上空から見て” 象徴化した図です。中心部分である科学的な因果性は、自然現象の性質のなかでは、条件を絞りこんだときに当てはまる比較的限定されたものではないでしょうか。自然現象全体からすると、いまの科学が解明できていることがらはごくわずかだといいます。全体的・大局的に自然現象をとらえたとき、それほど乱暴な考えではないとおもいます。
魂不滅の謎に光明あれ。
出典『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「お茶が牛になるとき」 p.138
(中略)
いのちの次元では、魂は不滅である。生物無生物にかかわらず、この世の全存在はいのちのひびきをそれぞれ持っていて、すなわち、心的固有波動ともいえる原子次元に連動しての意志伝達が開花して、顔の姿をもってアピールしているとしか私には考えられない。
それでは、心の物質化現象の一例を紹介してみよう。
フォトエッセー『いのちの顔』の一節で、私たちの生まれ故郷の旧友が久々に尋ねてきたときのことを引用することにする。
インドでは、宗教的庇護のもと、街のいたるところでノッシ、ノッシと闊歩する牛。牛は仏様の使いなのか、神様の使い手なのか、牛は死んでからもその魂はこの世に物質化現象を起こすのか。また、人の思いが真に物質化現象を引き起こさせるものなのか。あまりのリアリティーに息をのむ。
平成三年一一月九日、旧友が久しぶりに訪ねてきた。祖母の代から使役してきた黒牛の話に一段と熱が入った。
身代の基礎をつくりあげたこの家の黒牛は、家宝として、親子代々にわたり飼い続けられたという。ことのほか、この黒牛には思い出が深いという。
胸を詰まらせて語ってくれたその方に、私は茶菓子を出し、お茶碗を手渡したその一瞬、数滴がこぼれ落ちた。なんとそこに、ありありと浮き出たのは〝黒牛〟の顔! 物質化現象は紛れもない真実だ。魂不滅の謎に光明あれ。
以上のような話だが、皆さんは信じられますか? 水には表面張力があるから、テーブルなどにこぼれると滲まないかぎり盛り上がる。テーブルは塗装されているから余計こぼれたままの形となる。
カメラを持ち出して写すのだが、ストロボをたくと盛り上がっている水滴には陰影ができて、黒牛の姿を際立たせることにもなる。もう一度やってみたけど決して「牛」にはならなかった。神意が働いたとしか考えられない。角が二本、目玉二つで白目と黒目、耳も向かって左はこちらにアンテナを向けている。右の耳は横の方に向けている。口は牛独特の広がりと大きさをもっている。撮影してからしばらくすると、やがて形を崩して平面調になった。
この原稿を書き始めたのは、平成二一年二月二五日である。念のために、この日は丑(牛)の日であった。また、台所では妻が、今日は菅原道真公の本命日だといって、一心に供え物の料理をつくっていたのである。道真公はご存じの通り、牛とは深い繋がりをもっていた。
思いは形をつくり、思いは魂を呼ぶ。心がいのちの宝なのである。
「お茶が牛になるとき」136〜139頁
(または『いのちの顔』について▼)
この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。(まえがきより抜粋・随想写真集)
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菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。