生命現象の根源

こころとからだ

心身の調和統一の要

 

この文章全体の冒頭に記した『酒乱』からの抜粋文ですが、とくに印象的な部分があります。かつて酒乱地獄を経験した夫妻の言葉です。

 

 

 

(注)文中の★印と傍線はサイト編者によるもので、印象的な部分。

 

(中略)

ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命の愛に戻って、我々を、「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」を借りなければ、人間は改心できない。(中略)

 妻がよく言う言葉に、「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある人間以前の生命の愛がないと成仏できない」と、いうことがある。(中略)

 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。(後略)

 

出典『酒乱』「地獄期」>「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」 一一〇〜一一三頁

 

 

 

成仏じょうぶつできない」というのは、心(体)の中にいるじぶん以外の霊のことであるとともに、いずれは肉体を脱ぐじぶん自身でもあると感じています。私たちの生命は生と死とで、ひとつです。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは、本当のことです。〝天地自然の調和性と同化する〟あるいは〝食生命との融合〟という精緻な仕事をこなす体の存在が、いかに重要かを物語っています。

 

いっぽう、食に留意し健康状態は良好でも、心をはぐくむ意志が薄弱だと、心の問題を根本から解消することはできません。意志は最も重要です。しかし、それでもなお、人間の根深い心の問題は、「いのち」の本質的特性がかかわる問題であるがゆえに、「高尚な精神論や、宗教論では解決しないのです。

 

わたしたちは心(気もちや思い)を最優先して体を置き去りにしたり、後回しにしたりする傾向がないでしょうか。心が苦しいときほど、それは顕著になるはずです。でも、もしかしたら、むしろ心のほうが体から置き去りにされているのかも知れません。

 

この世にいることは体とともにあること。この事実をしっかりと受けとめたいとおもいます。

 

 

 

参考図書・参照資料「もっとくわしく」目次

 

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もっとくわしく

 

 

 

 

概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

『酒乱‐米の生命が生きるまで』「守護の窓口となった妻と自然律(悪は、この世の仮りの姿)」p.113

 

 

 

 

守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)

 

(中略)

 

 そのため、心の習慣と肉体の習慣を、日々、粗末にできない理由が、生命いのちの裂けるほど、わかってくる。そして子孫のどこかで、必ず目覚めなくてなんとするか!!

 この永々と続いた悪習慣は、自分の過去だけのものなのか、あるいは、両親の代からのものなのか、さらに、それよりも、もっともっと先の時代にまで遡るのかは、人それぞれに異なっている。

 ただ、ここではっきりしていることは、子孫の誰かが、この先祖ぐるみの悪習慣を断ち切らなくてはならない。命がけで、生命に恥じない人間性を取り戻さなくてはいけないのである。

 そのためにも、単に人間的自我というくらいでは到底太刀打ちができない。自然界の愛が窓口にならなくては、汚れ切って、軟弱化した人間の心を、浄めることはできないだろう。

 人間発生前の、生命いのちの愛に戻って、我々を、

「生かして、生かして、生かし続ける愛の力」

を借りなければ、人間は改心できない。

 すべての宗教を超えて、生命の愛に目覚めなくては、心の汚れは浄められない。私に潜んだ、酒乱で汚れ切った心は、妻の真心の一念で、生命の愛に目覚めさせてくれたのだった。米と酒の生命が、妻の生命の光を通して、私の心の中で生き返ったのである。

 このことは、とても理解に苦しむこと、あるいは、低俗なことだと言われるかもしれない。だが、今、本当に、自分が迷っている時、そこから目覚めるためには、高尚な精神論や、宗教論で救われるだろうか。

 少なくとも、酒乱の人生から自分を目覚めさせてくれたものは、ただの主婦である妻の守りのお蔭だった。一念の真心(愛)は、人間的自我(煩悩的自我)を超えた愛の心となり、私の汚れた心を浄めてくれた。

 この妻の愛は、あまりに当たり前過ぎて、かえって説明に苦しむところだが、それは、人間的、都合的、犠牲的な愛ではない。また、男女の愛、親子の愛とも違う。それでは、どういう愛なのか。一口で言うなら、生かし続ける沈黙の愛だと、言える。また、宇宙心霊(生命界の心)が、妻の生命にがっちりと生きたのだと思われる。

 妻が、よく言う言葉に、

「人間以前の食物たちの生命(心)に戻らないと、人は成仏できない。人霊の活躍は、まだ自我がある。人間以前の生命の愛がないと成仏できない」

と、いうことがある。

 このことを知るためには、まず、毎日の食事に心を向けるがよい。食べることによって、生きることができるのは、当たり前のことだ。

 もの言わぬ米を食べ、そして、野菜、魚、その他一切の食物を食べて、こうして、自分の心が生まれ、が生まれ、言葉が生まれ、走り回り、今日を生きる人間。この、生かす力(愛)しかない食物たちと、融合一体となって、その尊い声なき心を受けることができる。酒乱の夫と過ごす尊い人生、三十三年の中で、人間を諭し続ける生命界の心と、通じ、結ばれ、生きた。そこには、いかなる理論の余地もない。

 そこにあるものは、丸裸の透き通った光だけの生命いのちしかない。そして、黙する生命の光の受け皿となった妻。しいて言うなら、沈黙の心々の世界から見たなら、灯台の光のような妻を見ているようなものであった。

 だから、米の生命は、妻の生命の光を見て、心を寄せる。酒の生命も寄ってくる。酒の心は、妻を通して叫ぶ。

「喜び、安らぎで飲むんだよッ。浄まりの生命いのちだよッ。神に捧げる生命だよッ。汚すのは、人の心だぞッ」

 また、米の心は言うだろう。

「米寿の祝いとなる生命だよッ。八十八(88)の数にも、生きられる生命だよッ。磨き抜いて、御神酒にもなる生命だよッ。生命を汚してはならないよッ……」

と、人の体の中から叫んでいるだろうし、米、酒、食物一切、また、自然界の心々、そして、人霊の心々たちも、人の世のために、代弁してくれる妻の生命に寄ってくる。となって、文字に生きて、に生きて、に生きて、寄ってくる。そして、見えざる生命の世界の心々を、人々に伝えていただく喜びが、こちらにも感じられる。

 天地の生命の愛で生かされる人間界は、必ず、一人一人の生命の中から、目覚めさせられるであろう。そして、妻の守りは、沈黙世界の、見えざる、生かし続ける愛、その愛そのものの守り姿であった。

 だから、米の生命も、酒の生命も、私の生命の中で、力強く生きた。

 まず、心の突破口は、食物たちや、自然界の生かし続ける生命の愛を、自分の心で、ガッチリと感じられるようになれば、不調和な人生から、目覚めることが早まると思う。概念としての知識だけでは、むしろ、混乱が生ずるから注意しなければならない。

 こういう、生命の原点に、真心から感謝できる心(愛)が目覚めたなら、自らを救うことが必ずできる。

 不調和な心(悪性)は、目覚めなき迷いの心だから、悪はこの世の仮りの姿だと言える。

 

(後略)

 

 

「守護の窓口となった妻と自然律 (悪は、この世の仮りの姿)」109113

『酒乱‐米の生命が生きるまで』について▼

 

 

 

 

 

 

自分の還るところは極楽でも地獄でもない、澄み切ったいのちの原子世界、生命元素(食=原子=精神世界)の世界なのだ

出典『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「ヨシ婆さんと心の光」p.147

 

 

 

 

ヨシ婆さんと心の光

 

 自分の考えていることが、他のいのちの中で生きることができるであろうか。

 以心伝心とか、テレパシー(遠隔精神感応)とか、よく耳にする。また、クシャミをすると、「誰かが噂をしているんじゃないか」とからかわれることもある。

 ところで、自分の考えていることが他人に筒抜けになったら生きてはいけない。世の中は騒然となってパニック状態に陥ることになり、うかうかと物事を考えることすらできなくなる。

 では本当に、人の思いというものが、他人に伝わらないのだろうか。

 このごろ私は、心は光だと考えるようになっている。光であれば電磁波となって、地の果てまでも飛んでいくだろう。心は光の波であり、心の波形が合う相手に出会えば、その波長が増幅して光を増すことになる。

 その時相手には、「あれ」という感応の瞬間が出てくるのではないかと思うし、また、その予兆を感じるだけでなく、二、三日その人の中に居候することもありえる話だと私は確信している。

 心が光だと思う訳には、「心の原料は原子である」ということが前提となっている。「原子が心の原料だなんて話は荒唐無稽も甚だしい」と叱責されるかもしれない。

 原子は、原子核(陽子と中性子)と電子からなっていて、さらに奥の世界は、素粒子の世界だといわれている。

 では、さらにその奥へ奥へと内なる宇宙に思いを進めるならば、一体どうなるのであろうか。何があるのか、誰が待っているのかと素人の空想を宇宙大に広げると、かぎりなくゼロの世界に到達するのではないのか、と思いは広がるばかりである。実はそのかぎりなくゼロの世界こそ、いのちの中心世界ではないのか、と現実味を帯びて迫ってくる。そこが、宇宙原初の時代情景なのではないかと、私はその幻想を描いているが、どうであろうか。

 ある日突然、そのかぎりなくゼロの世界に二つの激しい渦巻きが発生して、互いに回転を始めたとする。それは、互いに反対方向に回転しながら左右二つの渦巻きとなって、8文字状を描き続けることになり、私はそれを生命8字還流と呼ぶようになった。

 そして、悠久の歳月をかけ、陽子と中性子が組み合って核を成し、その周りを電子が軌道をつくっていのちの元となる原子ができたであろうことを思うとき、そのいのちの末裔である私たちは、宇宙始まって以来のいのちを繋ぐ、一三七億歳の天文長寿の、れっきとした地球人ということにならないだろうか。われわれには、天眼、天耳、天鼻などの神通力が備わっていて当然ではないか。

 だが、世の中の平安調和を思ってか、宇宙の親様は、人の心に幕をはってくれたようである。混乱がないように、心の安全弁を与えてくれたと思えてならない。

 何を考えようが、どんな心で生きようが、自己責任のもとで、寛大な自由を与えてくれたのではないであろうか。だが心の自由も、宇宙絶対調和力によって自動的に統御されているのも事実であると私は受け止めている。

 大脳新皮質が発達した人類から、神通力は加速度的に退化していると思うが、他人の心も、自分の心も、互いに不特定多数の中で時空を越えて伝播されている現実の中、ときには、心の波(波形)が類似すると一瞬のひらめきにも似た心のひびきを受け取ることもあるものである。元々生物に備わっている古い脳(大脳辺縁系)にこそ、生命の根源を司る機能が組み込まれていると思われる。

 心を電磁波の光として考えるとき、お互いの心の波形の山と山、谷と谷が合うようであれば心の光は強くなると思うし、それとは逆に、波形の山と谷、谷と山がぎこちなく重なるようなお互いの心のタイプであれば、波の干渉によってその心の光は弱くなると考えられるから、心は打ち消されて伝わらない。

 心の波形といっても、ピンからキリまであることを思えば、千変万化の人心の中で、心の波は想像以上の階層となるから、以心伝心の声なき声の響きは、そう易々とは伝わりはしないであろうし、強いてその発生メカニズムを推量するならば、絶対的な心の静けさが伴ったとき、思念の精神感応が起こりやすいと、私は自分の体験をふまえて、そのように考えている。ここで、本題に入る前に一つの体験例を紹介する。

 平成四年七月一四日からの、たま出版(株)主催のスピリチュアル・ツアーに参加した後日談であるが、帰宅した私は、自分の心に、得も知れぬ変化が起きていることに気がついた。朝、目を覚まして起き上がろうとしたその一瞬のこと、顔の中から白煙にも似た湯煙のような気が出たかと思うと、その白煙が女性の顔に変わり、またたく間に、雲が流れるようにして消えたのである。その顔は、ツアーで一緒だった女性、Y・Hさんであると確信できたから、そのことを本人に電話で伝えてみて驚いた。受話器の向こうで、「あら、やっぱりっ!」と言うではないか。その女性と別れるときにちょっとしたドラマがあったことで思いを強く発したのと、また、似たような心の波調の持ち主でもあったようである。この一例からも、心は電磁波の光であり、一種の電波ととらえてみることができよう。この場合は時間的に、二、三日の間、私の心の中に彼女の心が滞在していたことになる。

 さてここから、本題の体験の話をすることにしよう。それは、妻の父方の伯母を見舞に出かけたときのことであった。いわば〝死の予告〟とも思われる、遠隔精神感応の体験である。二日続けた見舞の初日は、平成四年五月二二日金曜日であったが、その帰りの道中で、茨野新田という集落を通過していたときのこと、突然妻は、テレパシーを受けたのであった。

「お父さん、今、ヨシ婆さんの感じのする心が入ったけど何だろうか?」

 それは、「ツーヤクダー」という、いのちからのひびきが、妻のいのちに同調していたらしい。すかさず妻が時刻を見ると、五時二二分になっていた。

「あら、今日は五月二二日だよ」

と、妻が不思議に感じて言う。

 私は、ツーヤクダー…ツーヤクダー…という言葉の流れを二度、三度頭の中で繰り返していた。そのうちに、「通訳だ」という現実語となって浮き上がってきたのである。

 ヨシ婆さんは、九六歳という立派な長寿を全うしている。何といってもこの世は有限世界であるから、九六歳は立派なものである。

 だが、生死の臨界線にいるヨシ婆さんは、枕元で呼びかける妻の言葉にはほとんど反応をしなかった。しかし妻に対して、何かしらの神通力を感じていたらしいから、ヨシ婆さんの魂はきっと、「富美子(妻)は、私のいのちの通訳だ」と言ったのではないのか、と私はそのように理解した。

 さらに、五月二二日と五時二二分は、ぴたりと一致する数霊でもあるから、この数字には深い意志性を感じられてならない。この数字の同調性をどのように受け止めればいいのか、単に、数字が合ったとか合わないという次元でないことは肌で感じられる。数字の持つ意志性には、何か根源的次元からの能動的なひびきが感じられるのである。ある特定の魂からの、言葉以前の強烈な意志の伝達があるのではないか。それこそ通訳はできないが、数字は宇宙語(私の造語)のような感じがするのである。いのちの中は、数の魂(ひびき)で一杯なのである。

 そして、翌日、二度目の見舞を終えてからの帰路のこと、助手席の妻のいのちに再びテレパシーが入ってきた。

「フミコ ト アッテカラ スンデキタ」

「どういうことですか」と妻は自問した。

「コメノトギスルノヨウニスンデキタ

イグドゴワガラネガッタガ

コンドハッキリシテキタヨダ」

 昨日は「ツーヤクダー」と言い、今日はこのようなひびきである。

 ここで、はっきりとその内容が浮き上がってきたのである。

 妻に対してヨシ婆さんが、「あなたは魂の受け答えができる通訳なんです」と言ったのが昨日のことで、今日は、

〝富美子(妻)と会ってから心が澄んできたぞ

それは米の研ぎ汁のように澄んできたよ

わたしの行く先(逝く先)わからなかったが今度はっきりしてきたよ〟

という内容であることがわかる。

 ヨシ婆さんは、生死の臨界線上に来ていて、自分の還るところは極楽でも地獄でもない、澄み切ったいのちの原子世界、生命元素(食=原子=精神世界)の世界なのだということを、一心に伝えてくれたのではないのか…。

 ヨシ婆さんは、妻に伝え終えてから四日後の平成四年五月二七日に、澄みわたる生命元素世界(光の世界)へと旅立っていった。享年九六歳の天命長寿であった。

 心はいのちの本質、死ぬことのないいのちの宝。心の光は意志を乗せ、魂を乗せ、物申す電磁波のひびきであると思うのである。

 

 

「ヨシ婆さんと心の光」一四〇〜一四七頁

『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』について▼

 

 

 

 

 

 

食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.62

 

 

 

 

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

 

(中略)

 

 いろは姫は一介の主婦ですが、現実生活の中で、数字と文字の世界にアクセスしています。難しい学問世界はわかりませんが、ただ一つ、鉄の一心を持っています。数字と文字を心いただくことのある暮らしの中で、一切不動の鉄の一心を心がけています。そして、共時性現象を

〝食心の目は共時の目〟

という、次元ばなれした言葉で表しています。食こそいのちの根源であり、一旦口から入った食べ物は、人間の自我が立ち入ることのできないいのちの世界。それこそ、ご意志の世界、それをいろは姫は「五一四ごいし」の世界と書き換えています。「ご意志」と書けば、人間の自我が入る世界ですから、それを数字の「五一四」と表現することは、宇宙に通じる意志といえましょうか。

〝食なくてなんのおのれがこの世かな〟

 生き物は食べなくては生きていられません。あまりにも当然すぎる当然のことです。しかし、そこにこそタネ証しの謎があることに人はなかなか気づきません。知性で栄えて知性で滅びては、人間の特性は宝の持ち腐れになります。生きることの次元にこそ、共時性現象(通称=偶然の一致)の謎解きがあったのです。

 いのちは原子です。原子は食です。食に発する原子です。生きることの原子が、全身の中で舞っているから今日も生きていけます。あまりにも当たり前のため、低次元として無視されているわけですが、そこにこそ共時性の目が光っていたわけです。

 つる姫は、ユングと天明を前にして、天の川のことを話し出しました。

つる姫「ユングさんと天明さんは

立場は違っていても

ともにいのちのルーツを求め、心のふる里を求めてきました

天の川には『天意の法則』がいくつもありまして

その中に

〝一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり〟

というものがあります

また、〝食心の目は共時の目〟というものもあります

どちらも、食はいのち、いのちは食ということになりますが

そこにこそ、宇宙調和のエネルギーの謎があるのです

そして、縁結びの中心エネルギーとなる

「共振共鳴共時の目」があったのです

「目」とはそのものの中心と考えたらよいでしょう

ここで再び〝いのちの舞い〟を出しましょう

 

やまず

やすまず

とどまらず

とんでははねて

はねてはとんで

あっちへこっちへ

ランダムに

信号ないけど

赤・青・黄色

安心安全

原子の舞いは

いのちの喜び

大調和

いのちの原子

大調和

 

食からいただいた原子の世界は

私たちのいのちの中で

いつも引き寄せたり引き離したりして

枠を超えたら引き戻すゼロの力が働いたりして生きているわけです

共時性現象の本質はつまり

食心の目は共時の目

いのちと食は同義と解する

いろは姫の鉄の一心は

天の川の天意の法則にも当てはまっているのです」

と、ここまで話すとつる姫は

つる姫「ユングさんと

天明さんに面白い映像をお見せしましょう

これは、田之助といろは姫の話です

二人は天の川から舟に帆を立てて下ってきました

天の川から心の国へ流れている支流は数多くありますが

二人が乗った舟は

東北の山形県に流れている支流を下ってきたのです

天の川の分岐点には立て札が立っていて

「サイジョウノカワ」(最上の川)とあります

ところが、しばらく下ってくると

ちょうど山形県内に入ったところから急に川の呼び名が変わりました

「モガミガワ」(最上川)となっているのです

二人は、どんどん下ってきて河口の酒田港に到着するのですが

その舟を見ますとまるで宝船のようです

舟一杯に稲穂が積まれていて帆には大きな文字で

「食心の目は共時の目」と書かれてあって

下段一面には聞き慣れない祝詞のりとが書いてあります

 

変われども、時代変われど、いのちの光

米は変わらぬ永遠とわかて

鶴千年亀万年、

稲穂の実りは億万年

人類栄えの糧となる、米が光れば皆光る

おかげで今日も生かされる

ありがとう」

 つる姫の話はここで止まりました。宝船にはその祝詞文字が金文字で浮き立っていて、そればかりか、帆柱のてっぺんには長方形の旗が風にひらひら波打っています。その旗は、金色に彩られた〝米〟の写真でした。それを見た誰かが声を出しました。「あれはユングだ!」

 びっくりしてそれを見たユングが、

ユング「おお、

よく似ているなあ」

と反応すると、こんどは天明が、

天明「本当に

ユングとそっくりだ

さらに神示のイチリンの仕組みの丸の中に点が入った記号にも似ている!」

ユングと天明は一段と共振共鳴していたのです。

 そこに、三心クルーのもじたまの皇子が話に入ってきて、

もじたまの皇子「さっき

声を出したのは私でした

宝船の旗は誰が見てもユングさんに似ているし

丸の中に点が入った記号にも似ているし神示の中心様みたいで

田之助はこの写真のことを

一粒観音様といって大事にしているようです」

と言い、宝船の旗について盛り上がりました。

 酒田港の埠頭は大勢の見物客で大変なにぎわいです。黄金の光を放つ珍しい舟。それは稲穂の光でした。

 米は人間の主食です。生きるためのいのちの機関車です。田之助は酒好きが高じて乱れとなり、いろは姫との葛藤が長い間続きましたが、ようやく生きることの原点に気づくことができて、いのちの真実を求めることになったのです。

 片やいろは姫は、田之助を鉄の一心で守り続ける中で、いのちの真実に気づきました。

 口から入った食物たちは、いのちの光に身を任せ、やがて原子の光に立ち返って、新たないのちの光へと生き変わります。そして、働き終えた食物たちは、外界へと帰っていきます。その一人ひとりのいのちの中で命が新たないのちを育て上げるまでの運びには、いかなる人知も、いかなる自我も立ち入ることができません。立入厳禁の〝聖域〟なのです。

 この聖域の旗印が、帆に書かれている

〝食心の目は共時の目〟という世界なのです。

 ユングと天明には、新たな驚きとひらめきが交差していました。そして口を開いたのはユングです。

ユング「つる姫様、

ありがとう

単純明快にいのちの中心には食がありました

毎日の食べ物が、いのちとなる次元こそ共時性発生の次元でした

ここにこそ心と物質が融合一体となり生命発生の謎がありました

食って生きる、こんな単純なところに

山ほどの理論を積み上げたことから解放されたような気分です

ありがとう」

と、ユングの目は輝いています。そこに天明も続いて、

天明「つる姫様、

ありがとう

神示の一点が解けてまいりました

食が新たないのちとなる次元

いのちの中心・ゼロ一点の次元が

イチリンの仕組みの「丸の中に点が入った記号」でありました

ここにこそ鉄の一心・食心の世界・共時の世界を見ることができました

扉開きはゼロの目、食の目、共時の目を開くことでした

いのちの真実に目覚めることこそ岩戸開き、そして心の扉開きでありました

ありがとう」

と、二人は、つる姫にその思いを伝えたのでした。

 ユングにも、天明にも、地上社会でのプライドはすべて消えてなくなっていました。

 何もかもが単純明快であり、時間も空間もありません。さらに、すべてが一面一体で新旧もありません。現実には立体に見える物質世界ですが、それを成す精神構造は、極めてシンプルな一面一体の世界と考えられます。岩盤のような魂も、バラバラに分解されて、やがては「真性魂」しんせいたましいの意志基盤に合流します。真性魂とは、宇宙絶対調和エネルギーを、意志性に変換して考え出した表現です。

〝何事も想いが先のこの世かな〟

 地上社会で積み上げた心は次々と魂の集団となり、これが、真性魂に似て非なる「擬似魂」なのですが、その一人ひとりの擬似魂ぎじたましいが、その人の心の遺伝子となり、やがて心の国に入ると、いのちの意志エネルギーに同化されるようになっていきます。生命エネルギーの魂の玉は、丸く削られ、透明な玉となっていくのです。

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」六二〜七一頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

食といのちの循環リズムの中にこそいのちの本質を探る道筋がある

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.120

 

 

 

 

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

 

(中略)

 

 目には見えない時計の内面が時計の命であり、メカニズムであり、無数の担当部品たちの正確無比無休の働きがあればこそ、表の大針小針で現実を表示します。人体もまた同じことです。体内を構成する億万兆の細胞たち、二〇六本の骨、血管、神経、体液、脳、心臓、肺、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門、膵臓、肝臓、脾臓、卵巣、子宮、睾丸、大脳、小脳、間脳、脳髄、延髄、視床下部、脳下垂体、目、口、鼻、耳、舌、歯、喉仏に気管支、手足の指は二十本、頭の毛数十万本、陰毛、腋毛に胸毛…書きはじめたら何日かかるかわかりません。生命体の見えない体内では、すべてが相互信頼で、すべてが連携プレーです。それも正確無比無休で一切が自動です。内面のエネルギーは唯一点に結ばれています。そしてこの内面が〝心の国〟なのです。時計の針が動くのと一緒で、人々の現実生活が流れている根幹が心の国にありました。心の国の喜びが、自分の喜びの表情となるのです。

 このように、心の国ではそれに気づいても気づかなくても、動きが止まることはありません。止まれば暗黒世界。動きあればこその現実があります。

〝いのちの裏時計〟に気づきはじめたとき、心の扉が開かれてきます。そのとき、万光の輝きとなり、平安の輝きとなり、無益な闘争の火が消える日がやって来ます。必ずやって来ます。

 心の原点、生きる原点を開くことが、天明が取り次いだ日月神示第一六巻でいう、

〝いわとびらきなりなるぞ、

まこといわとはとわぞ〟

これこそが、日月神示の真骨頂でしょう。

 岡本天明が取り次いだ一六年間の神示は主に数字と記号でした。ご縁というものはすばらしいもので、この神示を解読する作業に強力な助っ人が加わったのです。

 昭和三四(一九五九)年七月七日、小田野おだの女史との出会いです。画家、数学者、哲学者といういかめしい肩書を持った偉人でした。

 小田野女史は、日月神示の核心を貫く一本の光は「ことば」(光透波)であると直言しました。「ことば」は神示でいう丸の中に点が入った記号であり神であるわけです。また、数字のことば「九十八ことば」に展開されます。さらに、九十八の和数は「九」であるとして、九こそ天の意、すなわち、宇宙意志であり、いのちの本質であることを示されました。

 このことを田之助の妻、いろは姫は、「九」を「食」だというのです。九=クをクウにひびきを重ねて「食う」へと展開するわけですが、それほどの違和感はありません。田之助が、タマヒロ社長と会話の後で急に唱えだした〝わたしは原子〟に戻ってみれば、ここでの「九と食う」という展開は自然の流れでありましょう。食といのちの循環リズムの中にこそいのちの本質を探る道筋があるといえるし、食といのちは同義と考えてもおかしくはないのです。

 

一呼一吸天の気

一食一排地の気

天地の気はいのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 食はいのちの呼吸ですから同義同体なのです。

 その「食って生きる」原点にこそ共振共鳴共時性の原理の世界が見えてくるといえます。いのちを神と呼ぶなら、食もまた神ということになりましょう。

 

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」118120

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

出典『富士山と雲と神様』「第十二話 細胞からの三つの願い」p.77

 

 

 

 

第十二話 細胞からの三つの願い

 

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いは 三つある

きれいな水と 簡素な食事

そして一つは 調和の心

三つの願いを 聞いてくれ

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

どうかよろしく 願います

 

 私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。

 重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。

 それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。

 それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。

 その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。

 細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。

 

一、「きれいな水」

ここは富士山 富士宮

汚れを知らぬ 神田川

源流いずくと たずぬれば

浅間大社の 庭に湧く

湧玉池が ここにあり

 

 富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。

 

二、「簡素な食事」

一呼一吸 天の気

一食一排 地の気

天地の気は いのちの食

食はいのちの呼吸なり

 

 生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。

 食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。

 三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。

 そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。

■玄米

 二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。

■味噌汁

 だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。

■納豆

 黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。

■お茶

 ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。

 

三、「調和の心」

私は細胞 微生物

一〇〇兆個の 微生物

私の願いを 聞いてくれ

どうかよろしく 願います

 

 調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。

 寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。

 車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。

 以上が、細胞からの三つの願いであります。

 

 

「第十二話 細胞からの三つの願い」七五〜八二頁

『富士山と雲と神様』について▼

 

 

 

 

 

 

岩戸開きは、心の目を開くこと / 天にも通じる人の心こそ 永遠の扉開き

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.96

 

 

 

 

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

 

(中略)

 

日月神示の内容は全部で三八巻にまとめましたが、理解できる方がいなければ神示の意味をなしません

全般を通しての内容は人の道の目覚めを促すものですが、

そのことは心の原点

いのちの原点に目覚めさとすことでしかありません

中でも『第一六巻』アレの巻にそれが集約されております

特に最初の『一六文字』が最も重要です

それを真剣に受け止めてくれる方はいろは姫ただ一人と見ています

現実界に残してきた妻の三典みのりでさえ理解できないでいます

 

(中略)

 

神示の第一六巻は私の内面を知る最良の理解者であります

うれしく思います

私の心の所在地は宝船の帆にも書いてある

食心の目は共時の目、その世界です

神示の一厘の仕組み「丸の中に点が入った記号」の世界はその世界だと思っています

食物たちが口から入り、人々の命となっていく

いのち育ての聖域の中にいると思っています

現実界の人々には理解できそうもない

いのちの中心で育てられていると思います」

天明「一六巻は

最も中心となる神示です

特に最初の一行目の

一六文字には

その真髄が

凝縮されています

 

〝原文〟

一八十一キ七

〇九十一八十八十八三

〝解読文〟

いわとびらきなりなるぞ

まこといわとはとわぞ

〝解説文〟

言答開き成り成るぞ

誠言答は永遠ぞ

 

この神示を食心の目で読んでいただきましたこと

岩戸開きは、心の目を開くこと

人の世の平安はそれでこそ永遠なのであるということ、など

いろは姫さんが話されたことは真実なのです

天の川の「天意の法則」には〝食心の目は共時の目〟という一節のあることを

つる姫様から聞いておりました

天にも通じる人の心こそ、永遠の扉開きです

 

(後略)

 

 

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」九三〜九六頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

言答開き成り成るぞイワトビラキナリナルゾ 誠言答は永遠ぞマコトイワトハトワゾという書き出しの文面には、神示の真髄が凝縮されている

出典『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」p.142

 

 

 

 

第二章 魂を乗せた一羽の折鶴

 

(中略)

 

 この折鶴との出会いによって、田之助の妻(いろは姫)にも著しい内的変化がありました。これまで、日常生活の中で、心結びの文字や数の文脈を容易に理解できなかった夫に代わって、天明の取り次いだ神示(日月神示)の第一六巻にこそ、妻の心を癒してくれる真実があったのです。これこそが田之助の妻の最大の理解者となったのでした。

 特に、神示第一六巻の最初の一行の一六文字に、田之助の妻の心の内に共振共鳴する真実が秘められていました。

 

原文

一八十一キ七

〇九十一八十八十八三

解読文

いわとびらきなりなるぞ

まこといわとはとわぞ

解説文

言答開き成り成るぞ

誠言答は永遠ぞ

 

という書き出しの文面には、神示の真髄が凝縮されているというのです。その書き出しの「一八十一キ」、すなわち「言答開き」であり、「岩戸開き」であり、その岩戸開きこそ〝食心の目〟であり、この食心の目こそ心の目であり、岩戸であり、扉開きという真意がそこにあるというのです。

〝食がいのちになる次元〟

 この一点にこそ、神示第一六巻の眼目がある…

 神示第一六巻に出会うことで、田之助の妻の人生にも運命的方向性が与えられたのでした。

 

 

(注)文中の傍線はサイト編者によるもの。「折鶴」とは一九九三(平成五)年八月六日に広島平和公園近くで発見された「一羽の折鶴」。この下の資料に見られる「折鶴」と同一。当サイト「共時性の真価」に記述。

「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」一四二〜一四三頁

『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』について▼

 

 

 

 

 

 

ふでに「自分拝まねばどうにもならんことになるぞ」 と、示されているのは、このこと / 自らの五体こそ、食に生かされているカミの器

出典『至恩通信』平成19年5月23日 (旧4/7号(258号)▼

 

 

 

 

(中略)

 

人のいのちの成り立ちは

母胎に宿った 十月十日 八八 八四 で運ぶ 食のみによって 育成生 致します。誰も 手をかけることの出来ないウソのない母体の中 光 恵 恩 実 証す。

いのちの元点を 心に抱いて 一生あらねばならぬ 悟りとなりました。

食なくして 五体は この世に存在出来ません。

この五体は ひかりでございます。と、さとった今、身体をなでながら、ふでに「自分拝まねば どうにもならんことになるぞ」と、示されているのは、このことでございました。

今迄 遠く 天空の彼方に 神を拝してまいりました。

自らの五体こそ、食に生かされている カミ の器でございました。

 

折鶴によりまして、難解を究めた十六巻を 分からせて頂くことが出来ました。

一八十一ラキ七リル

〇九十一八十八十八三

言答開き成り成るぞ

誠言答は永遠ぞ

イワトビラキナリナルゾ

マコトイワトハトハゾ

 

人間本来 永遠のいのちである。と、分からせて頂きました。

日月神示の 極意となっております。

 

折鶴の芯 光 言 食芯のめざめこそ 世界を一つに結ぶ 自然の理でございます。

神理を分からせて頂きました今、初心にかえり 宗教法人を 解散することに致しました。

 

(後略)

 

【脚注】

  • 以上は『日月神示』の著者岡本天明氏の妻、岡本三典氏による文。体裁はできるだけ原文のそれを忠実に再現した。文中の傍線はサイト編者。
  • 「折鶴」とは一九九三(平成五)年八月六日に広島平和公園直近で発見された「一羽の折鶴」。上の資料の「折鶴」と同一。当サイト「共時性の真価」に記した。
  • 前半部分の生命観は、下に挙げている『酒乱』の著者夫妻が後に出版した『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』(下記)「第一章心のつる草」で述べられている。
  • 後半部分の「折鶴」は、同じく第二章、第三章、あとがきで紹介・描写されている。

 

 

 

 

 

「こころとからだ」各ページ

 

引用・参考図書

▼本の中身を見る

書籍『酒乱こめのいのちが生きるまで』の詳細・閲覧ページにリンクしています

酒乱
米の生命が生きるまで

菅原茂/MBC21/1993年

 

「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。

 

 

▼本の中身を見る

書籍『神秘の大樹 第二巻 ヒロシマとつる姫』の詳細・閲覧ページにリンクしています

神秘の大樹 Ⅱ
ヒロシマとつる姫

菅原茂/おりづる書房/2011年

 

平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。

 

 


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書籍『富士山と雲と神様』の詳細・閲覧ページにリンクしています

富士山と雲と神様

菅原茂/おりづる書房/2016年

 

この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。

 

 

▼本の中身を見る

書籍『神秘の大樹 第三巻 文字・かず・色であかす新次元』の詳細・閲覧ページにリンクして

神秘の大樹だいじゅ
文字・数・色で証す新次元

菅原茂/おりづる書房/2012年

 

文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。

 

 


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書籍『ひふみ神示』を図書館検索サイト「カーリル」で検索します

ひふみ神示(上巻)

岡本天明著/コスモ・テン・パブリケーション/1994年

岡本天明氏の「自動書記」による著書。心の目を開いて自己調和に努めるよう人類に警鐘を鳴らし気づきを促す書として知られている。文中には、この神示そのものについて、人としての「道」を示したものであり、特定の宗教として広めてはならないという主旨のことが書いてある。長編であり、難解な箇所もある。諸説あるが、「アレの巻」の冒頭に書かれたごく短い二文(下記)が最も重要な部分だとも言われている。

 

 

至恩通信 258号

岡本三典/至恩郷/2007年

B4版の二つ折りの会報。本号は全3ページ。『日月神示』および『ひふみ神示』に頻繁に出てくる、円に点を入れた記号「丸天記号」を間に挟み、『至恩通信』という題名で印刷されている。掲載した資料は、「宗教法人解散のお報せ」という見出しの文章終盤に記述されている部分。『日月神示』の発祥、法人発足や『至恩通信』発行の経緯いきさつ、平成5年8月6日(1993年)広島における〝折鶴〟との出会いにまつわる話、上記抜粋文、御礼のあいさつと法人解散の祭典日時などが記されている。 

 

 

関連ページ

引用・参考図書  /  抜粋・引用文集  /  参照資料の索引

 

 

共時性とは何か

共時性と因果性

この画像は上の見出しのページにリンクしています

時空や生死を超え、人種や生物種も超えて、いのちには境界がない証し

 

因果性とは何か

物理学的視点

この画像は上の見出しのページにリンクしています。

「因果性」の実際は、それほど単純ではなく、もっと複雑。科学的な「法則」は、限定的な条件のもとでのみ有効だ。

 

偶然と因果

共時性と因果性

この画像は上の見出しのページにリンクしています。

因果性がないというより、今の科学の尺度では説明できない、と言うべきではないのか。

 


客観と主観

哲学的視点

この画像は上の見出しのページにリンクしています。

自然界と人間とを切り離す「客観」的態度が潜在的に抱えている問題点

 

共時性の真価

いのちの真実

この画像は上見出しのページにリンクしています。

平成5年8月6日、広島平和公園で偶然発見された一羽の折鶴。共時性の真の価値は、それが生命の真実を示していること。

 

参照資料の索引

いのちと共時性の考察

この画像は上の見出しのページにリンクしています

「いのちと共時性の考察」各主題の文章作成に用いた参考文献や、理解の助けとなる参照資料を網羅。