共時性と因果性
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C.G.ユング氏は、著書『自然現象と心の構造』のなかで、共時性について次のように述べています。
一般的に、因果性と共時性は別の原理として考えるようですが、それは、哲学や物理学における因果性の解釈を考慮しているからです。くわしくは、別に述べることにして、まずは『自然現象と心の構造』から抜粋してみます。
たしかに、生きている私たちの体が存在している物質の世界は、時間や空間が支配的で、私たちの体はそれらに逆らうことができません。そういう限定された条件のもとでは、相応の時間と労力をかけて丹念に研究すれば、ついには原因と結果の関係がつきとめられる場合もあるので、その性質を利用して高度なものづくりや医療を進歩させることができたのだと考えられます。
いっぽう、心の世界は、時間や空間によって位置を定めることは、ほぼ不可能です。つかみどころがないので、原因と結果の関係も一層つかみにくいと言えます。
ところで、相関関係ということばがあります。心と体の相関関係が、西洋医学でも広く認識されるようになったと聞きますが、くわしい因果関係が必ずしも科学的に証明されているわけではないようです。
では心と物事の関係はどうかというと、共時性現象の定義にみられるように、心的要因が物的・外的事象の自然発生を招くという科学的な証拠がないので、因果関係がない、または「非因果的」および因果関係があるかどうかは不明だとされているようです。因果性と共時性が別の原理であるという考えには、こうした背景もあると考えられます。
ちなみに、因果関係と相関関係は意味がちがいますが、理論物理学者のデヴィッド・ボーム氏が、自身の論文のなかで、心身相関から心と物質の関係まで述べているので、そのほんの一部を抜粋します。また、心理学者の河合隼雄氏が、著書のなかで、デヴィッド・ボーム氏の見解を紹介しています。
重要なのは、ボーム氏が述べている物質は、人間の体を構成している物質であると同時に、外界の物質もさしているということです。
ユング氏は「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」と述べています。たしかに、本人でなければ実感しにくいのは事実ですから、個人的な例は第三者によって客観的に評価できないという点は一般論として挙げられます。ただし、実験によって科学的な法則性を証明する手法を適用できることがらは、そもそも限定的であるはずです。
また、心は常に変化していて一定ではない性質があることを考慮すると、「実験的にくり返しがきかない」のは、ある意味当然のことではあります。物の性質にくらべて、心の性質はいっそう不安定であると考えられるので、狭義の「因果性」という尺度ではとらえ切れないということです。
ですから、偶然の一致(共時性)が「因果的に関係ない」というのは、関連がないという全面的否定というよりも、今の物質科学の尺度(=因果性)では説明ができないと受けとめるべきです。この点をふまえると、共時的なことがら同士は因果的に関係ないという論理、または「非因果的」という表現には、誤解を生む可能性があることがわかります。
というのも、私たち一般の日本人には、もともと仏教用語としての意味をもつ「因果」という言葉のほうが感覚的に何となく馴染みがあると考えられ、科学に適用される狭義の「因果性」と混同するおそれがあります。物の見方・尺度・その理論である科学が、「因果」の概念に対して正否を判定したり、観念そのものを否定したりしているとは考えられません。物質科学的な手法では因果性を判定できないという見地から、以下のようにユング氏は(同著書において)次のように結論づけていると考えられるのです。
共時性現象のもつ意味が、個人的(特殊)か普遍的かは、心の方向性が大きく関わっているとされます。科学的・客観的尺度とはちがって主観的であるとはいえ、縁を引きよせる当事者の心が、何を観ているのか、どこに向いているのかによって、現実に起きることがらにも差が生じるということです。心の次元や純度、思いの深さなどに応じて、縁にも差が生じると考えることは、心と体の関係や先ほど述べた心と物質一般の関係をふまえると、さほど飛躍したものではないとおもいます。
前に述べた〝仏教用語としての意味をもつ「因果」という言葉のほうが感覚的に何となく馴染なじみがある〟とは、次のような辞書的意味を明示できなくとも、そのような文化的背景を日本人はもっているのではないかということです。
以上の出典は『広辞苑第四版』岩波書店、第六刷、1997年。〔仏〕は仏教、〔哲〕は哲学。「今昔四」は今昔物語集の第四巻、「太平記二」は太平記の第二巻。
上の説明は「因果」という言葉の確認です。注目したいのは仏教的世界観というより、「自然」をどう捉えてきたかという点です。この点について河合隼雄氏が著書のなかでくわしく述べている部分を抜粋します。
今日では、日本人のほとんどが「自然」という言葉を、英語の nature と同じような意味に解していると言っていいだろう。人間および人工的なものに対するものとして、いわゆる山川草木、および人間以外の動物、それに鉱物などを含め、それを宇宙にまで拡大して、総称して「自然」と呼んでいる。しかし、実のところ、そのような客観的な対象としての「自然」などという概念も、また言葉も、もともと日本にはなかったものであり、nature という英語に「自然」という訳語を当てはめたために多くの混乱が生じることになった事実は、柳父 章の周到な分析によって周知のこととなっている。従って、この点については省略するが、そうなると、現代の日本人は、自然をどう把握しているのか、そもそも古来からはどうであったのかなどが問題となってくる。(後略)
「自然」という語は、もちろん中国から由来しているわけであるが、(中略)自然という語は、「『オノズカラシカル』すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)、あるがままの在り方を意味し、必ずしも外界としての自然の世界、人間界に対する自然界をそのままでは意味しない」ことを指摘している。この「オノズカラシカル」という考えは、天地万物も人間も同等に自生自化するという考えにつながり、「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであること」を認める態度につながるものである。(後略)
このような中国の「自然」に対する態度は、インドからの仏教を受けいれたときに影響し、福永は、「西暦七-一〇世紀、唐の時代の中国仏教学をインドのそれと比較して最も注目されることの一つは、草木土石の自然物に対しても仏性すなわち成仏の可能性を肯定していることである」と述べている。つまり、生物のみならず無生物も、森羅万象すべてが仏性をもつと考えたのである。
このような考えはそのままわが国にも伝来されてきたが、「自然」という用語は、従って、「オノズカラシカル」という意味で用いられ、それは「自然」と発音されることとなった。そして、西洋人のように自我に対する客観的対象として「自然」を把握する態度は存在せず、従って、そのような名詞も日本語にはなかったのである。「山川草木」というような表現が示すように、個々の具体的なものを認識の対象とはしたであろうが、おそらく、それは近代人のする「認知」とは異なるものであったと考えられる。対象と自分との区別は、昔の日本人にとって思いの他にあいまいなものであったろうと思われる。
西洋における(中略)「自然」を客観的対象としてみる態度の背後には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、人間とその他の存在物との間に画然とした区別が存在することになった。このような宗教的な背景をもって、他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。このため、「自然」は西洋において科学の対象となるし、「自然」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。
ところで、日本人は近代になって西洋の nature の概念に接したとき、これに「自然」の漢字をあて、「自然」と呼ぶようにしたのであるが、そのために柳父章の指摘するような混乱が生じた(後略)
『宗教と科学の接点』「第五章 自然について」>「自然とは何か」一四一頁から一四五頁、文中の人名への振り仮名はサイト編者による。
このほかにも、〝キリスト教という宗教〟と科学はかならずしも対立する概念ではないこと、科学は基本的にキリスト教の世界観を補う存在として発達したこと、などを指摘しています。中国や日本などおもに東洋では完全には客体化され得ない自然や自然現象に対して、原因に対する結果という直線的な因果律は馴染まなかったのではないでしょうか。
科学に適用できる明瞭な「因果性」と、全体的な文脈としての「因果」の違いは、前者が物という「客観」領域を、後者が意識という「主観」を「客観」と明確に分けず全体を視野に入れている点です。ちなみに客観主観という言葉は明治期に西洋から輸入した言葉(概念)の訳語とされています。(広辞苑より)
このようなことを理解した上で、科学が輸入された明治以降の私たち日本人の、つまり自分自身の自然観や世界観に目を向けると気になることがあります。身の回りの自然界(食物の生命を含む)や自然現象、他人などを自分の存在(自我の意識)とは分けると同時に、客観的対象として(医療においては体すら客体化して)認識する慣習が、良し悪しは別にして根づいているのではないでしょうか。
「非因果的」「因果的には関係がない」という解釈には、主観と客観とを明確に区別する西洋的世界観を背景にもつ「科学」的根拠の枠内で結論づけるしかない事情があることを理解する必要があるのではないかと考えています。ユング氏はどうしても非因果的と言わざるをえなかったのではないかということです。
河合隼雄氏は次のように指摘しています。
超感覚的知覚(Extra-Sensory Perception 略してESPという)の現象に関しては、それをエーテルとか特別な電磁波などによって伝播の可能性を因果的に説明しようとする試みがなされてきた。これに対して、ユングはそのような因果的説明を拒否するところに特徴がある。そして、その上で意味のある事象の重なりが非因果的な布置(acausal constellation)をつくることがあり得ることを認めようというのである。つまり、因果律と共時性は、事象を研究する上において相補的な役割をなすものであり、両者はまったく性格を異にする原理であることを認めるのである。
(西洋哲学的世界観を背景にもつ)因果律で説明できない事象であろうと、在るものは在ると学問的に認定するために、因果律とはまったく別の原理として共時性を位置づけようとしていた、というのが上記の指摘です。
いっぽう、その因果律に比べれば非常に曖昧ながらも、東洋では客観・主観の境界ではなく、共時的事象とその背景にあるものとの間に「因果」という関連性を観ていたということではないでしょうか。「因果的には関係がない」という考え方に対して個人的に少なからず違和感を覚えるのは、このような世界観のずれがあるからではないかと考えています。
偉大な実績を積み重ね、私たちに恩恵をもたらしてきた科学ですが、心は解明できていないことが多いのも事実です。また、仮に私たちの知識が更新されていないままだとすると、結果として心の奥深さや神秘性を見落としたり排除したりすることになりかねないようにおもいます。
科学的根拠がなければ怪しいという世の中の空気は当時も今も変わらないのかもしれません。ただ科学を信奉するのであれば、科学者のなかには先述のように専門を踏まえた考察によって、心的「因子」と「物質的宇宙」とを関連づけた人が存在しており、科学のありように一石を投じていることを知っておく必要もあるのではないでしょうか。
ユング氏は、「空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目として」共時的要因の存在を科学的に確かなものとしなければならないという科学者としての強い信念のいっぽうで、科学で割り切れない現実に葛藤していたのではないかとおもいます。生命に対する見方(生命観)が問われているいまの時代、先人の研究とその意志を正しく引き継ぎ理解することで、先入観や固定観念を脱する必要があるのは言うまでもありません。故・ユング博士も、進歩をいちばん望んでおられるのではないかと想像します。
人間が知性によって獲得した高度な学問的成果や精神的成果、たとえば科学、宗教、思想、哲学。上述のように私たち現代人の世界観や生命観はこれらの影響を少なからず受けています。しかし、ヒトの生命は、知性や心、それらを超越する精神的な本質(霊や魂)だけで存在しているわけではありません。
いま述べた「知性」の成果にはもちろん意義があります。しかし、生命を根元的に支えている食、それと融合する精緻で高度な働きをしている「からだ」の存在を置き去りにして、この命題を語ることは本来できないはずです。この点に関する参照資料として、書籍『酒乱‐米の生命が生きるまで』『神秘の大樹』(ほか)の一部や当てはまる文章すべてを抜粋し、参照・資料ページにまとめて掲載。以下はその1つです。また、ページ下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧できます。
毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分 / 細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へ
『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「雲になった桃太郎」▼
どんなものにもいのちがあると私は日頃からそう思うようになった。そして、いのちの一つ一つには顔があるとも思ってきた。また、いのちの本体は心ある物質であるということが私の生命感の土台となってきた。いのちは、心性と物性の両性(二象体)を持つ、元は一つの心性物質から発しているエネルギーだと思うようになった。
だから、石一個、雨一滴、草一本でも物質であると同時に心であるということになり、それらのルーツをたどれば、目に見えない原子(元素)、素粒子などといういのちの素にたどり着く。科学が進めばもっと深いいのちのふる里に案内してくれるかもしれない。いずれにせよ、内なる宇宙も外なる宇宙も、いのちで満ち満ちている世界、それがこの世だ。
難しく考えれば、この生命世界は、共振共鳴共時の世界であり、磁気磁波磁性体の世界であり、代謝躍動安定エネルギーの満ち溢れている世界だと私は考えるようになった。すなわちこの世は、生命力で満ち溢れているいのちの世界に他ならない。
いのちの世界では、心は物質であり物質もまた心であるから、この世の存在は見えても見えずともすべてが生命体だという考えに立つことができる。
そういう考えに立つときいのちには顔があるものと思えば、この世の全存在には顔があるということになっても不思議ではない。そういうことを思うか思わぬか、また馬鹿馬鹿しいと思うかであるが、例えば水蒸気の一粒子にも心性波動があって、さらに、顔の相があるといってもいいのではないか。
心性波動は光といえるから、この世は光の世界といいかえてもそれほど馬鹿げた話でもないだろう。目の前の石一つでも光を発している。すなわち、心性波動を発しているし、その心性の内容はわからないが、心の素の磁気磁波磁性体であることには違いない。
ここで、自分というものを考えてみたとき、そのできあがる過程をさかのぼれば、毎日欠かさず口にする食物が細胞体をつくり、その組織体である自分の奥深くをたどるならば、細胞へ、分子へ、原子(元素)へ、素粒子へと、どんどん内なる大宇宙へと進み、その果ては、無音無体の「無」の世界となる。この無の世界こそこの自分の真の姿といえる。それはすなわち、いのちの土台は「無」であるということにもなるではないか。
何もないという無の世界ではなく、心と物質の両性をもった心性物質波動で充満する絶対静の世界だと私は考えている。
絶対静の内的大宇宙の自分、無を土台とした自分がもの申すことになるから、やはりこの本体は幽霊であって当然だ。するとこの世は、幽霊の話し声で溢れているけれども耳には聞こえない。どうですか? 馬鹿馬鹿しいかぎりですか?
幽霊といえば、薄気味悪く恐い話になるようだが、実は、自分の中には幽霊そのものの世界であって、目には見えない幽玄霊妙な物申す精神世界である。目に見えないものは恐いのである。放射能も心も目には見えないし、いのちという、意志性エネルギー体は、目には見えない幽霊の世界なのであって、恐いのは、人の心ではないか。極端なことを言えば、我々は、幽霊に着物を着せて歩いている姿なのだ。だから、恐くない心の持ち主になりたいと思うし、政界などでも取りざたされるものに、怨念劇があるくらいなのだ。
心のサイクルさえ合えば、この世は万華鏡で見るごとく、心のサイクル次第では変化に富んだ見え方をするのも当然だ。
さてここからは、心のチャンネル次第で驚くような天体ショーを紹介してみたい。
ある日、旧知のご仁が私に、次のような体験を披露してくれたことがある。亡き愛犬が、雲に姿を変えて逢いにきたのであった。
ご仁の犬好きは並のことではないようだ。寝食を共にという感じの心の通い合い即ち、以心伝心の世界であった。
昭和六四年一月一日、数匹の子犬たちが誕生した。すくすく育った子犬たちは、やがて新しい飼い主たちに引き取られていった。その中で、「桃太郎」という名前の特別かしこい牡の子犬は、知り合いの老夫婦に引き取られることになった。新しい飼い主の老夫婦は、やさしく大事に育てて、桃太郎と楽しく過ごしていた。
ところがある日のこと、おじいさんが病に倒れて入院することになり、残されたおばあさんは、犬の世話まで手が回らずご仁のところに親元になってほしいとお願いに来た。願われたご仁は桃太郎を引き取ることになった。
ところがどうしたことであろうか、それから二、三日後のこと、桃太郎は、どうみても車に自分から飛った。
ある、夕焼け空のとても美しい日のことであった。輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが、その間ほんの数十秒くらいであったという。
その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。
雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。
桃太郎の姿は、ご仁の想いの波動(光)で雲に転化したものであろうか。それとも、ご仁の心に受け答えするようにして、いったんは天地に命をかえした桃太郎ではあるが、ご仁の魂に内在する桃太郎の霊魂が生命元素を呼び寄せて雲に有体化現象を起こしたものであろうか。
それらのメカニズムは不明の謎であるが、あくまでもご仁の魂に残っている愛犬・桃太郎への想いが熟成されて、その霊魂が雲に同期したのかもしれない。
「雲になった桃太郎」二五〜三〇頁
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菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
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菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
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菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
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菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
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菅原茂/おりづる書房/2008年
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。