共時性と因果性
まず河合隼雄氏の『宗教と科学の接点』からの抜粋です。
あらゆる存在は個別に独立して見えているわけですが、量子力学という微視的観点では、それはあくまでも目に見える次元で一時的に安定した形状・形質として現われているだけであり、目に見えない次元では「全一的」世界と本質的に分割不可能、ヒトも例外ではない、と要約できます。「全一」(宇宙および世界)に比する「亜総体」(小宇宙=ヒト)、心と体は「亜総体」からの派生「因子」と表現できるかもしれません。(カギ括弧内の言葉はボーム氏の著書、それを引用した河合氏の著書より拝借したもの)
次は、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏の『量子力学と意識の役割』からの抜粋です。
ボーム氏の指摘を要約すると、外的事象よりも前の心的要因(原因体)がかたちになって現れ、事後の心はさらに後に起きるかもしれない現象の「原因体」(=「全ファクターの集合体」)に加わる、ということではないでしょうか。ボーム氏は共時性について述べているわけではありませんが、上に挙げた河合氏による指摘のとおり共時的な世界観と相通じるところがあるとおもいます。
磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼
いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。
今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。
われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。
その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。
これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。
たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。
いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。
心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。
いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。
共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。
心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。
いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。
呼吸と食はいのちの食
食はいのちの元素
生命元素はいのちの光
心は光で体も光
いのちは
磁気・磁波・磁性体
いのちは
共振・共鳴・共時体
共時性現象の基を成す
いのちは心の源流
いのちはものいう光
ものいう光なのだ
みんな光の王子
みんな光の女王
(後略)
「いのちは磁気・磁波・磁性体」207〜211頁
結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。
出典『神秘の大樹Ⅳ田之助とミロクの亀』「中編 — 鹿児島から三重へ」▼
(中略)
そうなれば、自分の生きざまの過去心(=浅い表層の魂)は、いのち舟の方向性(運勢)に大きくかかわっていて当然です。それは即ち、
〝先に来る結果はあり得ない〟
ということではないか。ところがそれでも田之助は納得がいきかねました。それらの結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。
因-縁-果=因-縁-果=因-縁-果=因……
と、田之助が黙々と考えていた時、大王が声をかけました。
ナビ大王「田之助くん
そのとおりであって
いわば心は縁のつる草のようなものですよ
鬼ごっこのようなもので、結局は
今の心の操縦士である自分自身の責任
即ち自己責任に帰結することになるのです」
と、そこまで話すと大王は消灯して休養に入りました。
その後、田之助の脳裏には折鶴のことがやけに浮上するのです。ミロクの亀も容易に寝付けずにいて「折鶴さん…折鶴さん…」と盛んにつぶやいていました。
広島の折鶴の塔広場で唄った折鶴のことが頭から抜け切れないのでしたが、田之助とミロクの亀はいつしか深い眠りの世界に入っていました。
今日は七月四日ですが、日付が変わる少し前のころ、ナビ大王は先ほど見ていたナビ画像について、クルーと深夜の話し合いをしていました。
それは、ここの磁場に強大な波動を感じていたからでした。ナビ画像を出して見ると、案の定三年先の画像が出てくるのです。ここは、「倉敷市玉島」です。
三年先のナビ画像に映し出されていたのは、広島市の平和記念公園の中にある原爆の子の塔、即ち「折鶴広場」です。その前を流れる元安川の橋が現れて、そこに一羽の折鶴が舞い降りていました。その折鶴とこの場所、即ち「倉敷市玉島」が強烈に共振共鳴して止まないのです。
(後略)
「中編 — 鹿児島から三重へ」一六〇〜一六二頁
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菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
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菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
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菅原茂/おりづる書房/2012年
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。