生命現象の根源
時として、じぶん自身の人生や人間関係に不調和をもたらすこともある心。心の問題はとても根深く、それに打ち克ち、改めるのは容易ではありません。それでも、望ましくないと感じるからこそ、葛藤・苦悩するわけで、本人に自覚がなければ、相反する心のジレンマに苦しむことすらないとおもいます。
普段、じぶんの心だと思っている「心」とは、じぶん自身の願望や意志の方向性・質・波長と重なる霊的エネルギーが、心の世界において発信し共鳴し増幅している、それが心の実相であることを共時性現象は暗示しています。心は霊的磁場。あらゆる生命の「思い」が混在する生死一体の世界、ということ。その心的かつ物的な状況証拠が、シンクロニシティ(=共時性現象)だと言えます。
いっぽう私たちは、基本的な生命活動をすべて体の精緻な働きに依存しています。体内の微視的領域は、だれも立ち入れない「聖域」。たとえば「食は大事だ」という思想は一見単純ですが、自分の意思で口にした食物は一旦飲みこむと、あとは体にゆだねるほかありません。これが真実です。
生死に関係なく人間が「モノ」ではないことはだれもが納得しますが、食物も「いのち」であり「モノ」ではないという自明の理に対しては、非常に鈍感。ヒトのいのちは食の「いのち」なしに成立しません。それほど重要な食の本質(いのち)を軽視・無視することは決して些細な問題ではなく、心と体の真の健康と調和という人間の本質的願望に逆行・矛盾する致命的な問題です。
食物の調和エネルギーとは、意識下にある、いわば表層の心を、部分的・表面的に調和・安定させる力ではなく、無意識次元からいのち全体を、自然界と同じ調和性へと導く根源的な力です。このため、本質的・根本的な調和へと向かう過程で、体も心も「一種の〝苦〟」をともないます。
食も心も体も、根本的には天地自然がつくる「いのち」の現れ。出現する根源の世界は同一、全一であると想像できます。以上の理由から、心と体の関係や、人と食物の関係は、機械的・因果的な作用や反応とはまったくちがう、いのちの響きあいだと考えています。
私たちは、人間中心の目線で食物を見てしまいがちです。仮に、健康的な食生活をしていたとしても、健康を手に入れるための「モノ」でしかないとか、むさぼるような食べ方をしているとか、そういう心根では自己調和できないことを、実感として気づかされています。体と食物への敬意・慎みよりもたいせつなものはないにちがいありません。
また、「いのち」は生と死とで、ひとつ。自然界に還っていく、すなわち天地自然の調和性と同化するために食物の生命愛が欠かせないというのは本当です。人間の根深い心の問題は、「いのち」の本質的特性がかかわる問題ゆえ、精神論では解決しないのです。
下に示す「こころとからだ」各ページ「詳細」には、『酒乱‐米の生命が生きるまで』『神秘の大樹』をはじめ「いのち」に関する書籍の一部や文章を数多く掲載。7ページにわたる延べ50前後の参照資料のため、このページは、各ページから1つだけ抽出しています。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧可能です。
上記本文中の太字ゴシックは引用・参照した文言。詳細は次のとおり、このページの抜粋・引用文集に掲載。
(リンク:ページ内)
(「こころとからだ」各ページへの)
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この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「酒乱の因縁と闘う自己解体」▼
いかに、祖先累々の生き様がどうであろうと、また、このオレも祖先になる日がくる。今の自分に責任をとれるのは、当然、自分だけだ。
今、このオレをバラバラにして洗い直し、組み立てなくて、なんとするか。悪い習慣の心は、焼き捨ててしまわなくて、なんとするのか。無難に生きる人々には、アッケにとられる話かもしれない。なんとしても、遣り通すことだと、その後も、私は身心に、過酷なプレッシャーをかけていった。
この、心を改心させなくては、ふたたび、酒乱は雑草のごとくに生えてくる。いつも脅かされることになるのは、火を見るよりも明らかではないのかッ。新しい生き方の幕明けのためには、それなりの覚悟が必要だ。
酒乱(酒害)を直す第一条件は、断酒以外にない。その次は、心の転換だ。心の向きを変えていき、新しい心の習慣を確立することだ。そのため、私は、心身にプレッシャーをかけて、従来の、物事に押し流される弱い心から、強い意志力に変身しようとしている。
酒を飲まないで、生きる喜びを、ありあまるほど味わえる人間にならなくては、意味はない。また、飲んだとしても、自在にコントロールできる意志力と、新しい価値観を開発しなくてはならない。
このような話は、酒と縁のない人たちや、喜び酒より飲まない人には、よくわからないことだろう。だが、私にとってはそれどころではない。まず、酒をやめ、次に、新しい意識の転換をやらねばならないと思った。そのためには、新しい心の積み重ねしか方法はない。
意識を改めるということは、容易のことではない。この体ひとつにも、何千年、何万年の歴史が刻み込まれているのだから、油断をしたら、なにが飛び出してくるかわからない。良いものばかりが、どんどん出てくれたら、そりゃ優等生になる。だが、私みたいに、具合の悪い、毒性ばかり出てくると、一生がメチャメチャの波乱となる。
具合の悪い、暗い影に脅かされることなく、いつも正しく、明かるく生きられるためには、祖先累々の想念を引き出さねばならない。その誘導は、今の心であり、一心に善い心を持ち続けなくてはいけない、と、真剣に考えつづけた。そんなことは、小学生にだって先刻承知なのだが、この五十男は、カラスに襲われながらも、必死になってそう思っていた。
だが、その善い心を持続しようとすると、なにかに、パクッと、食われてしまう。自分の中の悪性の心が、善性の心を、いつも食い続けている、ということなのだ。それでは、その悪を退治しなくては、いつになってもやられっぱなしとなる。それで、私は、足腰立たなくなるまでに、新しい自分の心を確立して、価値観を高めるということを始めたのである。
要するに、自分の体内にある、過去性とか、祖先累々の想念を大掃除して、俗にいわれる、因縁解脱とか、因縁成仏という意識の転換を果たして、新しい信念の確立をするということなのである。そのためには、肉体的、精神的にも、自分をバラバラに分解することだと考えたわけである。
このことは、とても危険な模索であった。そのため、社会の常識性を、一切遮断することからの出発なのである。そして、正気と狂気の境界線を走り出した。少し気を許すと、狂人世界に足を踏み入れることになる。何度か勇み足もあった。その意識の混沌とした時に、七羽のカラスに攻撃されたのだった。
だが、そんな時であっても、〝自分というものに目覚めていること〟に成功することができた。このような自己覚醒ということは、とても大事なことである。それは、狂気に陶酔して、目覚めがなくなっては、自己不在の恐ろしいこととなる。病院行きはご免だッ。世の中の乱れは、目覚めなき、自己不在の陶酔狂に、ほかならない。
自己に目覚めることの、いかに重要なことか。これは、生命を知るきっかけとなった。そして、自己に目覚めながら、もっと、もっと、自分を狂わせて、ギリギリまで心の奥へ踏み込んでみようと思う。
「酒乱の因縁と闘う自己解体」119〜202頁
〔こころとからだ ⑴ 心の問題の根本〕
本当に心の中で、悪性因縁を打ち負かす意志力を育てるということは、頭の中で考えるように単純なものではない。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「酒乱童子の成仏」▼
生命を貫く因縁の凄さは、絶妙な生命力となって、子孫の生身の中で開花する。人の心の累積は、五代、十代、二十代と引継がれ、二人の親が四人となり、倍々と増えていく先祖たちは、四百年くらいで一〇二四人、七百年では、一〇四万八〇〇〇人の先祖群団になる。
錯綜混沌として、ドロドロと溶解している人類の想念(心)は、我々の生命の中で、祖先霊(霊界心=擬似魂)として、ピッカピッカの生命本体(真性魂)にからみつき、生きて、生きて、生き続ける生命力となる。
この因縁という生命力は、ちゃんとした意識体として、この世に生きようとするから、運命劇が始まるのだ。そして、この因縁の意識体(心)の舵を取るのは、あくまでも自分の意志の力なのである。
強い意志を育てることこそ、悪性因縁から目覚める、唯一の手段であると、実感した。こんなことは、先刻承知のことだろうが、本当に心の中で、悪性因縁を打ち負かす意志力を育てるということは、頭の中で考えるように単純なものではない。私の、酒乱性因縁も、父の時代を飲み尽して、さらに、酒乱童子の真赤な舌先が、子孫である我々にも及んだのであった。その因縁の結晶の吹きだまりが、激突する。「以後、決して飲むまいぞッ」と、歯ぎしりしての抵抗も空しく、二十三歳で、因縁酒の洗礼を受けてしまった。キバをむき出し、燃え続けた鬼火は、因縁の心深く喰い込んで、魂の傷口をどんどんと広げていった。
そして、妻もろとも飲み込むかにみえた悪鬼も、妻の生命に生きた沈黙世界の師となる愛の光に阻まれ、ついには、手も足も出ないようになった。それと共に、私の中には、生命の真実が育ち始め、そして、新しい意志力ができてきたのである。
酒乱二代、母が父に五十五年、私の断酒まで二十八年と心磨き期間五年間の合わせて三十三年、親子合わせて八十八年の長きにわたったが、神が手向けた二人の女のお蔭で、人の道に目覚めることができた。妻もボソボソになった身心を引きずりながらも、不撓不屈の精神力の勝利となった。
流してならぬ 悪因縁
手前一人の 快楽を
〝ツケ〟で喜ぶ 親は鬼
泣くに泣けない 子の不幸
知らずに生きて なるものか
我が身裂けても 二度とまた
現世の〝ツケ〟は きっぱりと
消して花咲け 末代までも
これぞ調和の 人の道
いのちの原点 ここにあり
「酒乱童子の成仏」一七九〜一八一頁
〔こころとからだ ⑵ 心とは何か〕
生命体の見えない体内では、すべてが相互信頼で、すべてが連携プレー/それも正確無比無休で一切が自動
『神秘の大樹Ⅱヒロシマとつる姫』「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」▼
(中略)
目には見えない時計の内面が時計の命であり、メカニズムであり、無数の担当部品たちの正確無比無休の働きがあればこそ、表の大針小針で現実を表示します。人体もまた同じことです。体内を構成する億万兆の細胞たち、二〇六本の骨、血管、神経、体液、脳、心臓、肺、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門、膵臓、肝臓、脾臓、卵巣、子宮、睾丸、大脳、小脳、間脳、脳髄、延髄、視床下部、脳下垂体、目、口、鼻、耳、舌、歯、喉仏に気管支、手足の指は二十本、頭の毛数十万本、陰毛、腋毛に胸毛…書きはじめたら何日かかるかわかりません。生命体の見えない体内では、すべてが相互信頼で、すべてが連携プレーです。それも正確無比無休で一切が自動です。内面のエネルギーは唯一点に結ばれています。そしてこの内面が〝心の国〟なのです。時計の針が動くのと一緒で、人々の現実生活が流れている根幹が心の国にありました。心の国の喜びが、自分の喜びの表情となるのです。
このように、心の国ではそれに気づいても気づかなくても、動きが止まることはありません。止まれば暗黒世界。動きあればこその現実があります。
〝いのちの裏時計〟に気づきはじめたとき、心の扉が開かれてきます。そのとき、万光の輝きとなり、平安の輝きとなり、無益な闘争の火が消える日がやって来ます。必ずやって来ます。
心の原点、生きる原点を開くことが、天明が取り次いだ日月神示第一六巻でいう、
〝いわとびらきなりなるぞ、
まこといわとはとわぞ〟
これこそが、日月神示の真骨頂でしょう。
岡本天明が取り次いだ一六年間の神示は主に数字と記号でした。ご縁というものはすばらしいもので、この神示を解読する作業に強力な助っ人が加わったのです。
昭和三四(一九五九)年七月七日、小田野女史との出会いです。画家、数学者、哲学者といういかめしい肩書を持った偉人でした。
小田野女史は、日月神示の核心を貫く一本の光は「ことば」(光透波)であると直言しました。「ことば」は神示でいうであり神であるわけです。また、数字のことば「九十八」に展開されます。さらに、九十八の和数は「九」であるとして、九こそ天の意、すなわち、宇宙意志であり、いのちの本質であることを示されました。
このことを田之助の妻、いろは姫は、「九」を「食」だというのです。九=クをクウにひびきを重ねて「食う」へと展開するわけですが、それほどの違和感はありません。田之助が、タマヒロ社長と会話の後で急に唱えだした〝わたしは原子〟に戻ってみれば、ここでの「九と食う」という展開は自然の流れでありましょう。食といのちの循環リズムの中にこそいのちの本質を探る道筋があるといえるし、食といのちは同義と考えてもおかしくはないのです。
一呼一吸天の気
一食一排地の気
天地の気はいのちの食
食はいのちの呼吸なり
食はいのちの呼吸ですから同義同体なのです。
その「食って生きる」原点にこそ共振共鳴共時性の原理の世界が見えてくるといえます。いのちを神と呼ぶなら、食もまた神ということになりましょう。
(後略)
「第二章 魂を乗せた一羽の折鶴」118〜120頁
〔こころとからだ ⑶ 体の自律性への依存〕
心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。
出典『全体性と内蔵秩序』p.349〜350▼
(中略)
この心と身体の繋がりは、ふつう心身的 (psychosomatic) と称されてきた (この言葉は「ギリシャ語」で「こころ」を意味する「psyche」と「からだ」を意味する「soma」とから発している) 。しかし通常この語が使われるさい、そこには心と身体がほんらい分離した存在でありながら、ある種の相互作用で結びつけられているという意味合いが含まれる。だがそのような意味は内蔵秩序と相容れぬものである。なぜなら内蔵秩序にあっては、心は物質一般を包み込んでおり、したがって心はその特殊な場合としての身体を包み込んでいると言わねばならぬと同時に、身体は心を包み込んでいるばかりでなく、あるいみで全物質界を包み込んでいると言わねばならぬからである。
(中略)
そこでわれわれはさらにつぎのように提案せねばならない。より深い内奥にあって両者を包括する実在は心でも身体でもない。それはむしろ心や身体より高次元の、本性上それらを超越した実在なのであり、そしてまたそれこそが両者をともに在らしめる共通の根拠なのである。逆に言えば、心と身体はおのおの相対的に独立した亜総体にすぎない。つまりそれらの相対的な独立性は、両者がそこにおいて究極的に一つとなる高次の根拠から派生する(むしろ顕現秩序の相対的独立性は内蔵秩序という根拠から派生する)のである。
(中略)
心と身体が因果的に影響を与えあうのではない。むしろ両者のそれぞれの運動は、ある高次の共通根拠の射影どうしが関連しあっている結果なのである。
(後略)
〔こころとからだ ⑷ 心身相関と食の生命〕
一途に自然界の調和波動に感応する感性こそいのちの触覚であり、彼らの生き方そのものである。人間のように、ひとまず考えてみるということはない。
『いのちのふる里』「稲の授粉にふる里を見た」▼
稲の開花授粉は、人目を避けるようにしてあっという間にその営みを終えてしまう。いのちの不思議な作用は子孫を残す神聖な世界だ。静まり返った真昼の沈黙世界は、実りを孕む一瞬の出来事であった。
種同士のコミュニケーションは、他の種には全く通じない言霊となっていて、いわば極秘用語で話し合っているようである。植物たちは、完全なテレパシー波動で種同士のコミュニケーションを交わしているのであろう。
一途に自然界の調和波動に感応する感性こそいのちの触覚であり、彼らの生き方そのものである。人間のように、ひとまず考えてみるということはない。ただひたすらに感応する世界だ。
それは、いのちが順調になるための調和感応に他ならない。自滅するための感応は自殺行為に過ぎないから、生命力に逆行することもなく、黙々と生命界に順応する感性こそ彼らのもつ自然智ということになる。
何故自然智なのか、と立ち止まった時「いのち」とは、生かして、生かして、生かしつづける力ということになろう。
人間はすぐに考えてしまう。誰でも一度は立ち止まってあれこれと考え込む。考えた末に最初の直感が正しかったと気づくこともある。
植物や動物たちは、いのちに即した感応力しか働かず、考えて頭をひねることもないから失敗して後悔することもないだろう。出来たことは全て「ベスト」なのである。渡り鳥が飛行を間違えることはないだろう。また、植物にも動物にも、未来とか過去という生き方の観念がないだろうから「今をベスト」として生死流転を繰り返しているといえる。庭のミニ田圃に咲いた稲の花を見ながら、そんなことがらをつい考えたのである。
稲の花の六本ある葯(やく=雄しベ)たちをみていると、そこには、人間のような思考は感じられない。ただ、天地の調和力に同調する姿しか感じられない。
生育の自然的条件は全く異なっていても、その場の環境に身を任せて今を生きる姿しかない。
庭の砂地の稲は、肥料といっても腐葉土を少し施しただけで、農薬も使わず、水はサラシ粉の入った水道水で補充している。この稲たちは、以前どんな環境で育ってきたのかそのルーツは分からないけど、いずれにしても、庭の稲はここで花を咲かせた。そして、雌雄交配して結実手順は順調に済んだ。
米は、少なくとも、二千年以上もこの国に定着して主食として尊ばれてきた。人間にとって、最もふさわしい食糧として人間とともに生きてきた。
今、二一世紀の米作りとして特に、自然力の回復に向けて動き出している。農薬や化学肥料に対する考えは次第に有機、安全へと転換し始めている。合理的農業から自然と共生する農法へと大きく見直しが始まった。本来の生命力に戻る米作りに向け動き出さねばならないし、その兆候も顕著になってきたようだ。
〝元気な自然児に戻そう米作り〟
という思いが先に立つ。
庭の稲の開花は、貴重な心を引き出してくれた。二時間位のあっという間に、そのいじらしい開花光景は終わってしまう。籾の中心から二つに割れて、その中から六本の葯が元気よく飛び出す姿は、農業のプロでもなかなか出会えない光景という。
開花の稲は実を結び、やがて、私のいのちになる米のいのち。そこにこそ、共存共栄を見る思いになる。庭の稲にもいのちのふる里が輝いていた。
「稲の授粉にふる里を見た」八五〜八七頁
〔こころとからだ ⑸ 天地自然の調和性と人間〕
生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。
出典『富士山と雲と神様』「第十二話 細胞からの三つの願い」p.77▼
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いは 三つある
きれいな水と 簡素な食事
そして一つは 調和の心
三つの願いを 聞いてくれ
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
どうかよろしく 願います
私は私であって私ではない。そんな思いにさせたのは、二枚の写真からであります。富士山と神田川、そして富士山と芝川の写真です。それは単に山と川なのではなく、自然の循環を思い、それに自分のいのちの循環を重ね合わせることができるからです。
重ね合わせができた時、すべては何の違和感もなく一体になります。何一つかけ離れたものはありません。すべてが、巡りの中で結び合っております。
それらは自分の外の世界の話ですが、ひるがえって自分の中の世界を顧みてみれば、人体の一つひとつ、その完成度には神意を感ぜずにはいられません。生命の最小単位といわれる細胞は、あらゆる生命機能を備えていて、人体は一〇〇兆個ほどの細胞で構成されているといわれています。その細胞もまた、三〇〇種類近くにも分かれており、人体の各部位・器官を構成しています。細胞一つひとつに聞いてみれば、どこまでが自分であってどこまでが自分ではないのか、さっぱりわからないという感覚なのかもしれません。細胞をさらに細かく、分子→原子→素粒子へと掘り下げてゆくと、その行き着く所は、神であり、神のご意志の次元に入るのではないでしょうか。
それはさておき。私は私であって私ではない、と感じている私は、一〇〇兆個の細胞の塊であります。
その細胞たちから私は、「三つの願い」を託されました。それはきれいな水と、簡素な食事そして調和の心の三つであります。
細胞からのこの三つの願いは、一〇〇兆個の細胞が元気で生き活き活躍できるための必死の願いです。生命の最小単位である細胞は、元気で生きてゆくために私(本人)に向けてこれらの願いが叶うよう、いつも一心にアピールしているのであります。
一、「きれいな水」
ここは富士山 富士宮
汚れを知らぬ 神田川
源流いずくと たずぬれば
浅間大社の 庭に湧く
湧玉池が ここにあり
富士宮は清流に恵まれており、神田川、芝川、稲子川、潤井川、そして日本三大急流の一つ富士川が清流を供給しつづけております。「細胞の願い」の〝きれいな水〟に充分応えております。
二、「簡素な食事」
一呼一吸 天の気
一食一排 地の気
天地の気は いのちの食
食はいのちの呼吸なり
生きてゆくための必須条件は、食事であります。毎日欠かすことのできない生命を維持する行為であります。入口(食べる口)は一つ、出口(尿と便の出口)が二つの一本道の中で、一〇〇兆個の細胞は、毎日運ばれてくる食物を待っております。
食はいのちの呼吸であり、生死に直結する行為であります。
三つの願いの一つ目、〝きれいな水〟は、血流を順調に運び、体のすみずみまで食事を届けてくれる流れでございます。その流れを汚さないためにも、簡素でバランスの良い食事を細胞のいのちたちは望んでいます。
そのための食事の基本モデルとは、「一日二食」「玄米・みそ汁・納豆・お茶を摂ること」であります(以下の四点は、あくまでも筆者の基本モデルです。体調、嗜好などの個人差は多様でありますから、参考例となれば幸いです)。
■玄米
二人の一食分として、うるち米一合に水三合を加え、柔かめに炊き上げます。
■味噌汁
だしと具だくさんの味噌汁です。だしは食べるイリコなど、具は根菜、葉菜、海草など。
■納豆
黒大豆納豆が好ましい。プラスαでキムチなどの発酵食を混ぜてもよいでしょう。
■お茶
ほうじ茶、煎茶、抹茶、玄神(ブラックジンガー)など。細胞一つ一つは、最小単位の生命体です。直接本人のいのちを守る最前線で働いています。細胞が活き活きとして新陳代謝が活発であることはすなわち、本人も活き活きしていることと同義なのです。
三、「調和の心」
私は細胞 微生物
一〇〇兆個の 微生物
私の願いを 聞いてくれ
どうかよろしく 願います
調和の心とは、何にも片寄らない心です。何かに夢中になることは時によいことでしょう。ですが、それが自らの全てとなり執着となって、排他的になることには、一線を超える危うさがあります。
寛容度の高い、ひろい心は、細胞に過度の負担をかけません。調和不偏は、いのちに適った心といえましょう。こうした片寄らない心には、共にユーモアの心、遊びの心を忘れぬことも大切です。
車のハンドルには一八度の遊びがあるといわれます。それは〝間をとる生き方〟にも通じます。偏りのない心で、ユーモアや遊びの感覚を持つことは、細胞に大変有益に働くことでありましょう。
以上が、細胞からの三つの願いであります。
「第十二話 細胞からの三つの願い」七五〜八二頁
〔こころとからだ ⑹ いのちのひびきあい〕
ふでに「自分拝まねばどうにもならんことになるぞ」 と、示されているのは、このこと / 自らの五体こそ、食に生かされているカミの器
出典『至恩通信』平成19年5月23日 (旧4/7) 号(258号)▼
(中略)
人のいのちの成り立ちは
母胎に宿った 十月十日 母 箸 で運ぶ 食のみによって 育成生 致します。誰も 手をかけることの出来ないウソのない母体の中 光 恵 恩 実 証す。
いのちの元点を 心に抱いて 一生あらねばならぬ 悟りとなりました。
食なくして 五体は この世に存在出来ません。
この五体は ひかりでございます。と、さとった今、身体をなでながら、ふでに「自分拝まねば どうにもならんことになるぞ」と、示されているのは、このことでございました。
今迄 遠く 天空の彼方に 神を拝してまいりました。
自らの五体こそ、食に生かされている カミ の器でございました。
折鶴によりまして、難解を究めた十六巻を 分からせて頂くことが出来ました。
一八十一キ七七三
〇九十一八十八十八三
言答開き成り成るぞ
誠言答は永遠ぞ
イワトビラキナリナルゾ
マコトイワトハトハゾ
人間本来 永遠のいのちである。と、分からせて頂きました。
日月神示の 極意となっております。
折鶴の芯 光 言 食芯のめざめこそ 世界を一つに結ぶ 自然の理でございます。
神理を分からせて頂きました今、初心にかえり 宗教法人を 解散することに致しました。
(後略)
【脚注】
〔こころとからだ ⑺ 心身の調和統一の要〕
▼本の中身を見る
菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
▼本の中身を見る
菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
平成5年8月6日の広島平和公園で出合った一羽の折鶴は、「倉敷市玉島」と印刷された広告で折られていた。その地名は「日月神示」で知られる岡本天明氏の出生地。縁結びのしくみを、「心のつる草」など比喩を用いた物語を織り交ぜて表現している。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2008年
便利な生活を享受するために、工業を中心にしてひた走ってきた日本社会。そのいっぽうで、むかしもいまも、ずっと変わらずいのちの原点でありつづける食のふる里。個人の生き方として、また社会の健全な姿としてのバランスを、どうやって回復したらよいのか。食と農と生命に実感がもてぬ現代の私達。時代や社会を経ても生きる原点は変わらないはず。私達の体と心は原点に帰れるのか。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2016年
この世のすべてが心性エネルギーに満ちているという生命観=宇宙観からうまれた物語。ヒトは万物霊長の存在と言われるが、著者は万物霊同の視点で生命世界を観ている。ともすれば私たち人類はあらゆる生物の頂点に立つ最も優れた存在であると勘違いしがちではないだろうか。本作は子どもから大人まで読んで理解できる内容になっている点で、ほかの著作とはひと味ちがう作品。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2019年
夫人と米の生命愛による守護の中で、酒乱の因縁から自分の生命に目覚め、いのちへの誠実な思いを深めていった著者。「自己調和」をむねとする日常生活において試行錯誤する様子をありのままに綴っている。第一章は自らの日記から抽出した文章(エッセイ)。六十歳代、七十歳代、八十歳代と自己調和の日々とともに年齢を重ねた著者。その等身大の生きざまとその心意気が伝わってくる。
▼図書館をさがす
デヴィッド・ボーム著、
井上忠・伊藤笏康・佐野正博訳/青土社/1986年
『WHOLENESS AND THE IMPLICATE ORDER』(1980年) の邦訳版。科学は物質を微細に分け入り、その「構成」粒子を発見してきた。一般に私たちは、それが物を形作っている最小単位だろうという見方をしがちだが、分析して見える粒子は、ある文脈によって「全体」から顕現した一時的な抽象物であって、そもそも宇宙は分割できない一つの「流動する全体運動」だという。専門の物理学(量子力学)をもとに論じるこの世界像は、あらゆる物事を部分化・断片化する見方に慣れてしまった私たちに、重要な示唆を与えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
岡本三典/至恩郷/2007年
B4版の二つ折りの会報。258号は全3ページ。『日月神示』および『ひふみ神示』に頻繁に出てくる、円に点を入れた記号「」を間に挟み、『至恩通信』という題名で印刷されている。掲載した資料は、「宗教法人解散のお報せ」という見出しの文章終盤に記述されている部分。『日月神示』の発祥、法人発足や『至恩通信』発行の経緯、平成5年8月6日(1993年)広島における〝折鶴〟との出会いにまつわる話、抜粋した文章、御礼のあいさつと法人解散の祭典日時などが記されている。