共時性と因果性
ある心の状態と、当事者がおかれている状況の意味が一致する現象が同時的におきること、これを一般にシンクロニシティ、または共時性現象といいます。ユング氏は、「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」としながらも、「空間、時間という承認されている三組の上に第四番目として」共時的要因の存在を科学的証明によって確かなものにしなければならないという、科学者としての並々ならぬ強い信念をもって研究に没頭していたのではないでしょうか。
そのユング博士の研究によって、共時性現象は時間の概念や空間の原理では説明がつかない、という認識が一般的です。心の中の世界は、それらの拘束を受けていないからです。私たちは、「時間や空間を超越している」という表現を耳にすることがありますが、心の中の世界は、まさしく時空を超える世界と言えます。
ヒトが物質的世界と心的世界の両方を同時的に生きていることは疑う余地がない現実。ところが、一般に主観的か客観的か、科学的根拠は、ということばかりが問われます。いずれの場合も根元的かつ本質的かどうかを考慮しなければ不十分です。「自らを宇宙の中にどう定位するか」、あるいは生と死、そういう視点を欠くことは、氷山の一角を見てその背景にあるはずの実像や海面下の全体像を観ないようなものではないでしょうか。
あるいは、樹木の根幹と枝葉、一本の樹とその種子、いずれもおたがいを本質的に分離できない道理は、ヒトも同様です。仮に枝葉の先がいまの我々なら、根幹から枝々までは連綿と連なるいのちの歴史。つまりおびただしい数の祖先です。霊的にも肉体的にもその流れや文脈のなかにヒトは存在しています。
「全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。」という『酒乱‐米の生命が生きるまで』(1993)の文はそれを象徴しており、同じ著者による『神秘の大樹』(2011/2012)という題名にもそれが凝縮されています。
それらの一部または当てはまる文章をこのページに集約。また、下の「引用・参考図書」のうち、表紙画像に「▼本の中身を見る」と付いている図書は閲覧可能です。
上記本文中の太字ゴシックは引用した文言。詳細は次のとおり、このページに掲載している抜粋・引用文集に明記。
(リンク:ページ内)
(「共時性とは何か」各ページへの)
【客観】(対義)主観。①個人的・経験的意識にとらわれることなく、見たり、考えたりすること。object ②人間の行動・思惟には関係なく、独立に存在する物質・自然。外界。客体。object ③哲学などで、知るという主観の認識の対象になるもの。認識論上の対象。object
【客観性】 ①自己の意識をはなれていること。②物事が独立にもつ性質。③普遍妥当性。④対象に対する態度が個人的な感情をまじえず公平であること。
【客観的】(対義)主観的。①主観の働きに支配されず、第三者が批評するように公平に判断しようとする態度。②精神にかかわりなく、外界に独立して存在しているさま。③いつ誰が見てもあてはまるという性質があるさま。
【客体】=かくたい。①目的物。対象。object ②人間の精神的・肉体的・物的行為の向けられるもの。主体の主観作用の対象となるもの。存在論上の対象のこと。object(対義)主体③人間にかかわりなく独立して外界に存在する事物。人間の精神以外の物質。object(対義)主体
【主観】(対義)客観。①自分だけの考え・見方。②対象となりうる一切をのぞき、対象化できないもの、すなわち意識それ自体。subject ③外界を知覚・意識する主体。認識主観。自我。subject ④事物を見たり聞いたりして心の中にえがいた意識内容。subject
【主観性】-※
【主観的】(対義)客観的。①自分の考えを中心に、物事を処理しようとするさま。subjective ②個人的。自分勝手な。公平に物を見ないで自己の感情・意志のままにふるまうさま。subjective
【主体】①他に働きかけるもとになるもの。subject ②性質・状態・働きのもとになる本体。知・情・意の働きの統一体としての実体。subject
出典『日本語大辞典』一九八九年(講談社)※「主観性」という語は掲載されていない。便宜上「【主観性】-」と表記した。
(「共時性とは何か」各ページへの)
縁に偽りはない。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』 「神技一瞬、〝刃に変わる水杓〟」▼
縁は生命の調和力 。目の前にやってくる縁は、すべて自分に相応しい縁なのである。縁に偽りはない。私が引き寄せたものであり、みなさん自身が、引き寄せたものなのである。縁は、絶対の力を持って、私たちに逢いにくる。「よくやってくれた」と、ご褒美を持ってくることもあるし、あるいは、「偉いことをやってくれたなッ」と、言いながら、やってくることもある。
だから、みんなの目の前に現われる縁は、すべて、己の目覚めのためにやってきてくれる。善きにつけ、悪しきにつけて、やってくる。私の酒乱についても、当然、「お前は不調和な生き方をしているぞッ、早く気づけーッ」と、催足する現象を示す。
(後略)
「神技一瞬、〝刃に変わる水杓〟」一六八頁
この日は一〇月二〇日に亡くなった妻の母親の月命日で、二〇日の数霊が波のように寄ってきた。
出典『神秘の大樹Ⅲ文字・数・色で証す新次元』「思えば寄せ来る文字と数」▼
科学の世界で電子工学分野の活躍は目覚ましいものがあり、電子機能や通信機能によって、この世は驚異的な時代革新を遂げている。
その成果は生活全域までに浸透し、情報の氾濫に溺れそうにもなる。無視できればいいのだが、その濁流に呑み込まれている現状の中で、どうしたらいいものかとその恩恵に困惑することは贅沢な話かもしれない。
これほどまでに科学力を発展させてきた知的人類という生命体とは一体何物なのかと、ふと、ファンタジックな疑問にぶち当った。
ここで唐突なことを言わせてもらえば、この世の一切の生物は、地球がつくった生命ロボットのようなものではないかとそんな思いにもなってくる。ロボットならば地球の思いのままになるのではないか。
地球がつくった地球生物は、その生命ロボット別に、姿・形・心までもそれぞれの特性を持たされて、この地球上に生かされ続けている。そこに一体どんな目的があるというのであろうか。地球は生命ロボットをつくり上げて、さらに心までも吹き込んでいる。
その心は、地球自身の心であろうし、また、身体構造も地球自身のエネルギー構造を凝縮してつくられたように思えてならない。特に人類には知性を吹き込んだ。だが、今ではその知性が独り歩きしているように見えてくる。生命エネルギーの中核をなす核融合エネルギーを、脅しと実戦に使い始めている。
地球のいのちは、われわれと一緒で、呼吸をし、エネルギーの食事供給をしている。そのエネルギー供給源は、自給自足の核融合エネルギーといわれているから、半永久的ともいえる食の摂取といえるであろう。われわれもまた、その延長線上にある核融合エネルギーを生体エネルギーとして生きているのが実態であると私は思っている。
地球の血を引く生物として、その生命エネルギーは、核融合エネルギーに準ずるものであり、その供給源は〝食〟と〝呼吸〟による化学反応ではないのか。
毎日の食の摂取によってこの生命が維持されているのはいうまでもないが、その食物は、口から入って胃、十二指腸、小腸に進みながら、それら三部門それぞれの消化酵素によってアミノ酸次元まで分解され、小腸の吸収細胞から血液に送り込まれて各細胞に届けられる仕組みになっているといわれる。
端的にいえば、食物から吸収した生命元素(原子)が核エネルギーに変換されるからこそ、小さな生命体として生きていけるのだと思うのである。核エネルギーを食として呼吸する次元では、地球も私たちも同じ次元なのであろう。
生物は地球と同じく原子構造になっていることを考えてみたとき、いのちたち同志の心の発信、受信活動は、光(電磁波)の次元で交差されているのが、この世の実態ではないであろうか。
人それぞれに、何かを考えたり思ったり、また、声を出したり無言であったりと、心の光を発しているが、その心は一種の電磁波(光)であると思うから、それが時空を越えた次元で同調サイクルの心を持った人々に一種のひらめきにも似た心の動きを作動させると考えたとき、私は、〝思えば通わす命綱〟となって、何事かの意志が伝わると思うようになった。
人はそれぞれの思いのエネルギーを持っているが、その思いは電磁波(光)となって発信するとして、その周波数のチャンネルに心のチューナー(同調装置)が合うか合わないかの問題であって、合えば、それとなく他者の心の何かを促すエネルギーとなるであろう。
心は微妙な電磁波(光)となって飛び放っている。自分の心の周波数に合わなければ、心は決して動かない。また、テレビやラジオのように、心を選局するなどという器用なことはできない。ところが、一心一念の時は、強い周波数の光を発しているから必ずや同調のチャンスがやってくる。
その一例を紹介してみたいと思う。それは、平成五年二月二〇日土曜日のこと。朝起きると妻は何やら忙しく動きだしていた。
「今日は二〇日でお婆さんの月の命日です。何を上げたらいいか…」
と言いながら、「あっそうだ白玉をあげよう」と決めたかと思うと、棚から引き出した一本の白玉粉を手に持った妻は、
「これは大山の白玉です。清子さんからいただいた白玉です」
と言ったものの、どこの清子さんなのかがわからない。何度も呼ぶから不思議に思っているとさらに妻は、
「横浜の荻野さんに送った米も清子さんからいただいたものです」
と付け加えた。今度は荻野さんに送った米の話に清子さんが出てきたのである。その荻野さんは私の大恩人。数カ月前に亡くなったのだが、一月二〇日生まれでこの日の二月二〇日に何かと通じるひびきが生まれていた。
こうして、朝から清子さんのひびきが続いたのだが、それから数時間後の昼下がりのことであった。久しぶりにやっと会えましたと言いながら訪ねてきた方は、左の手に小さな包みを持って立っていた。後藤清子さんであった。
「二回訪ねたが留守でした。今日で三回目です」
と言ってカステラの土産を渡してくれた。このカステラが動き始めたのである。
賞味期限が、平成五年二月二〇日というのはこの日のことである。朝から清子、清子と、妻は呼ぶようにしていた。すると清子さんがやってきた。そして、五年二月二〇日期限のカステラ。そればかりではなかった。清子さんは、
「私は昭和五年二月二〇日生まれなんです」
いよいよもって文字霊・数霊のひびきが積み上がってきた。
「今日、お父さんが出版社に原稿を送るんです」
と妻が言うと清子さんは、
「あら、うちの息子は出版社に勤めているんです」
と言った。共振共鳴の鐘は鳴り響きが止まなかった。
話の展開は何やらしり取りのようだ。何かが動けば何かが動く、高気圧と低気圧が互いに作用反作用しあうようにして調和を保つ天気図のように、人の心の中もお互いに、知らずに反応しあっているようである。人の心には共鳴磁場があって、そこには、三つの魂の引き出し箱があるようだ。
心は魂の引き出しに入っている
引き出しは三つある
文字の引き出しと
数の引き出しと
色の引き出しに分かれていて
外の情報を受けて考える心と
内からわき出る心があって
考えた心の情報は三つに分かれて
魂の引き出しに収められる
文字・数・色の三つに分けて
魂の引き出しに収められる
引き出しの中でピカピカ光る心
生きて生きて生きようと輝く心
そして縁結びの船頭となって
いのち船を進める三つの心
この日は一〇月二〇日に亡くなった妻の母親の月命日で、二〇日の数霊が波のように寄ってきた。清子、清子と呼べば清子が寄ってきた。
噂をすれば影とやら…
想いが通じてクシャミとなり
というように、俗言が人の心の真実を伝えているようである。
「思えば寄せ来る文字と数」一八七〜一九三頁
人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっている
出典『宗教と科学の接点』第六章 心理療法について「宗教と科学の接点」p.192▼
(中略)
西洋の医学が人間の身体を「客観的対象」と見なすことにより、科学的な医学を発展させてきたように、人間の「心」というものを「客観的対象」と見なそうとしても、観察者自身も「心」をもっているので、そのようなことが成立しないのである。もちろん、そのようなことが生じないように治療者ができるかぎり「客観的」な態度をとることにより、科学的治療が行えると考えられたこともあったり確かに問題を限定すると相当科学的に治療が行えることは事実である。しかし、「たましい」のレべルまで問題にするときは、科学的にはできなくなってくる。既に述べたように、治療者がいわゆる「客観的」な態度をとるかぎり、患者の自己治癒の力がはたらきにくくなり、治療は進展しないのである。
既に述べたような「開かれた」態度によって治療者が接すると、それまでに考えられなかったような現象が生じ、そこにはしばしば共時的現象が生じる。その現象は因果律によっては説明できない。しかし、そこに意味のある一致の現象が生じたことは事実である。そのことを出来るかぎり正確に記述しようとしたとき、それは「科学」なのであろうか。それは広義の科学なのだという人もあるだろう。しかし、それはまた広義の宗教だとも言えるのではなかろうか。つまり、そこには教義とか信条とかは認められないが、自我による了解を超える現象をそのまま受けいれようとする点において、宗教的であると言えるのではなかろうか。
宗教はもともと人間の死をどのように受けとめるか、ということから生じてきたとも言うことができる。 (後略)
「第六章 心理療法について」>「宗教と科学の接点」一九二〜一九三
デカルトの切断によって、すべてのことが明確になったが、それによって人間存在のもつ大切な何かが消え失せたのではないか。
出典『宗教と科学の接点』第一章 たましいについて「たましいとは何か」p.20▼
(中略)
「たましい」という言葉をわれわれは明確な方法によって用いることはできない。なぜそれはあいまいなのか、なぜわざわざそのようなあいまいな言葉を使用するのか。これに答えるためには、デカルトによる物と心の明確な切断について考えてみるとよい。デカルトの切断によって、すべてのことが明確になったが、それによって人間存在のもつ大切な何かが消え失せたのではないか。その大切な何かがたましいであり、デカルト的切断の明確さに対応するために、それはあいまいでなければならないのである。たましいをもし明確に定義するならば、それはデカルト的切断力によって、物か心かのいずれかに還元されてしまうであろう。従って、ヒルマンが、「たましいという言葉によって、私はまずひとつの実体ではなく、ある展望、つまり、ものごと自身ではなくものごとに対する見方、を意味している」と述べるとき、それはデカルト的な世界観に対抗する見方をとることを宣言しているのである。物と心、自と他などの明確な分割によって近代人は多くを得たが、そこに見失われたものを尊重しようとする態度を、たましいというあいまいな言葉を用いることによって明らかにしようというのである。
(後略)
「第一章 たましいについて」>「たましいとは何か」二〇〜二一頁
このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっている
出典:同上 「西洋近代の自我」p.26▼
(中略)
西洋近代に確立された自我は、自分を他と切り離した独立した存在として自覚し、他に対して自立的であろうとするところに、その特徴がある。このようにして確立された個人を、英語でindividualと表現する。つまり、これ以上は分割し得ざる存在ということであり、その個人を成立させるためには、物事を分割する、切断するという機能が重要な働きをもつことを示している。有機物と無機物という分割、有機物をまた分割してゆき、人間と他の生物という分類が行われ、その人間をいかに分割していっても、個人が分割し得ないものとして残る。このことは逆に言えば、個人は他と切り離されることによって存在が明らかになると言える。
(中略)
このように他と切り離して確立された自我が、自然科学を確立するための重要な条件となっていることは容易に了解できるであろう。つまり、このような自我をもってして、はじめて外界を客観的に観察できるのである。このような「切り離し」による外界の認識は、個々の人間とは直接関係しないものとなり、その意味で「普遍性」をもつので、極めて強力な知を人間に提供する。これが、これまでの自然科学である。
(後略)
「第一章 たましいについて」>「西洋近代の自我」二五〜二六頁
結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。
出典『神秘の大樹Ⅳ田之助とミロクの亀』「中編 — 鹿児島から三重へ」▼
(中略)
そうなれば、自分の生きざまの過去心(=浅い表層の魂)は、いのち舟の方向性(運勢)に大きくかかわっていて当然です。それは即ち、
〝先に来る結果はあり得ない〟
ということではないか。ところがそれでも田之助は納得がいきかねました。それらの結果はまた新たな原因体となり、縁を結んでまた新たな結果を生む。そのリズムは代々消えることはない。
因-縁-果=因-縁-果=因-縁-果=因……
と、田之助が黙々と考えていた時、大王が声をかけました。
ナビ大王「田之助くん
そのとおりであって
いわば心は縁のつる草のようなものですよ
鬼ごっこのようなもので、結局は
今の心の操縦士である自分自身の責任
即ち自己責任に帰結することになるのです」
と、そこまで話すと大王は消灯して休養に入りました。
その後、田之助の脳裏には折鶴のことがやけに浮上するのです。ミロクの亀も容易に寝付けずにいて「折鶴さん…折鶴さん…」と盛んにつぶやいていました。
広島の折鶴の塔広場で唄った折鶴のことが頭から抜け切れないのでしたが、田之助とミロクの亀はいつしか深い眠りの世界に入っていました。
今日は七月四日ですが、日付が変わる少し前のころ、ナビ大王は先ほど見ていたナビ画像について、クルーと深夜の話し合いをしていました。
それは、ここの磁場に強大な波動を感じていたからでした。ナビ画像を出して見ると、案の定三年先の画像が出てくるのです。ここは、「倉敷市玉島」です。
三年先のナビ画像に映し出されていたのは、広島市の平和記念公園の中にある原爆の子の塔、即ち「折鶴広場」です。その前を流れる元安川の橋が現れて、そこに一羽の折鶴が舞い降りていました。その折鶴とこの場所、即ち「倉敷市玉島」が強烈に共振共鳴して止まないのです。
(後略)
「中編 — 鹿児島から三重へ」一六〇〜一六二頁
磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。
『神秘の大樹Ⅰ偶然が消える時』「いのちは磁気・磁波・磁性体」▼
いのちという名は誰が名付けたかは知らないが、いのち自身の自分でありながらも、いのちのことはあまりにも深く、遠くて手が届かない。そんないのちではあるが、求め続けることはいのちの果てまでも探求の道は続くであろう。
今朝はそのいのちのことでふと浮き上がるイメージがあった。いのちはこころの源流であることを。そして、いのちの本体は磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時体の有視現象を起こすものであることを。またそれは生命元素(原子)の世界でさらにその奥の素粒子の世界に通じる遺伝子以前の世界であることを。
われわれは、食をいただくお陰で生命元素が分子となり、細胞ができて、そして五体をつくる役割分担の細胞に分かれ、こうして今日食べた食物は立派な五体をつくってくれるし、五感で心をつくるまでに仕上げてくれる。
その五感とされる視覚(眼)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、味覚(舌)、触覚(皮膚)の五つの感覚と、五感の現実感とも異なる六感という霊的感覚があるわけだが、これら五感六感を感ずることのできるのは、いのちあればこそである。それらのことをつないでみると、宇宙をつくる生命元素があって、無限数の星々があって、銀河の中に太陽や地球があって、大地があって、大気があって、呼吸と食物をいただき、一体の「いのち」ができあがる。そのいのちは磁気・磁波・磁性の気をもっていて、そこに五感、六感が発生して、その反応の結果、心が生まれることに成る。そして、その心が人それぞれの人間模様をつくりだすことになる。それが人々の喜怒哀楽や悲喜劇の現実の姿となり、人間社会はとめどなくその変化を繰り返している。
これら人間社会のあらゆる事象は人が生きている証拠でもあるわけだが、この生きているいのちは、一体何ものなのかと考えを巡らしてみた時、いのちは磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)なのだということに気が付いたのであった。
たとえば、ちょっとした物音一つでも耳がピクリと動き、そして、その音の情報を聴覚でとらえて、それが何であるかを察知して対応する。外に向けても自分の心に向けても、すぐにそれらの動きに反応をする。その反応こそ磁気・磁波・磁性体(=共振・共鳴・共時体)の反応であり、すなわち、それらの磁性こそ、私はいのちの本体であると考えてみたのであった。磁気・磁波・磁性体は共振・共鳴、共時の現象をもたらす唯一の心性媒体だと考えるようになった。
いのちある限り、外的にも内的にも、この五感六感からの情報を元にして反応を繰り返す。その繰り返す反応こそ心の発生であり、反応即心であると考えた。
心という磁気体が、情報を統括する脳に集積記憶として積み重ねてゆく。この心の磁気体はさらに、内的反応体(霊魂=潜在心)となって、日々の五感とともに心の宝庫として多種多彩な心のいろどりを生みつづけることになる。
いのちの中で循環する情報反応によって、それぞれの個人差のある心を形成し、生み重ねているのが現実の姿であると考えた。いのちは、磁気・磁波・磁性体であり、共振・共鳴・共時現象の発生源なのだ。極言するなら、いのちは磁石だ。私は磁石であなたも磁石だ。いのちの本質はきっとそうに決まっているものだと私は本気でそう考えた。磁気・磁波・磁性体のエネルギーこそ、いのちの絶対調和力の核となるものだと確信に近い考えとなっている。
共時性現象(シンクロニシティー)をもたらす共振・共鳴・共時の世界は、いのちが磁気・磁波・磁性体だからこそもたらす現象であると思っている。
心も体も同一、同元、同質のもので、一元一体二象体となって現れることがいのちと呼ぶものではないのか。心と体は一人二役のようなものだ。だから生も死もない世界で、心も体も同一同根の生も死も呑み込む混合一体の世界であり、磁気・磁波・磁性をもった調和安定力こそいのちと呼ばれる本体であり、本質であると私は考えている。
いのちは磁気体であればこそ、男と女はプラスとマイナスで引き合う性質をもつとしても不思議とは映らない。磁気・磁波・磁性体であればこそ、宇宙世界の生命元素(原子)とも融合できうるこのいのちといえる。素早く反応する気の流れ、気の動きこそ、心の源流であると考えても決して的外れにはならないであろう。
呼吸と食はいのちの食
食はいのちの元素
生命元素はいのちの光
心は光で体も光
いのちは
磁気・磁波・磁性体
いのちは
共振・共鳴・共時体
共時性現象の基を成す
いのちは心の源流
いのちはものいう光
ものいう光なのだ
みんな光の王子
みんな光の女王
(後略)
「いのちは磁気・磁波・磁性体」207〜211頁
心は時空を超えて世界を駆け巡る。
出典『いのちの顔』「時空を超えた愛犬の魂」p.18▼
今や地上は情報過密世界となっている。今後ますますその度を高め、いよいよ地上は電磁・電波の濃密な波動の揺り籠となる。それらが生体に及ぼす功罪は別として、生活そのものが目には見えない光を操る時代となった。
最も原初的に言えば我々の〝心こそ光〟であり、意志伝達の電磁波ではないのか。
心は時空を超えて世界を駆け巡る。その能力の強弱はあっても宇宙の果てまで飛んで行く。思いは、天に通じ地に通じ万物普遍へと飛んで行く。
時は平成九年一月のこと。外国勤務の息子が帰省すると言うので、その時妻は愛犬の写真を頼んでいた。そして、一〇日のこと、台所の布巾が「犬」の顔に見えたのである。
その時〝一時一四分〟
息子が出発したのが〝一月一四日〟のことである。
帰宅した息子から写真を見せてもらい驚いた。〝布巾で見せた犬とそっくりなのだ〟
妻が写真を頼んだときは、既に愛犬の魂はいち早く作動していて、妻のいのちの中で有体化現象を発していたのである。
心の世界、魂の世界は、時間、空間も無く、一面一体、即時即刻の世界であり、まさに光の世界なのである。
「時空を超えた愛犬の魂」18頁
全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間 / 心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現れる。
『酒乱‐米の生命が生きるまで』「生命の樹」▼
悪魔に乗っ取られた酒乱の私でも、ピッカピッカの生命が宿っている。この生命こそ、永遠不滅にして、宇宙創成の原点に結びついているものだ。見た目には、一人一人は別個の生命体である。だが、それは単に肉体だけのことで、みなさんも、私も、たとえ親子でなくても、生命に関しては、すべてつながっている。そして、それは人間ばかりでなく、天地万物の全生命は、相互に関連のある生命ではないか。
このことは、自分の存在を考えたなら、すぐに理解できることだろう。この自分は、どこから生まれてきたのか。もちろん、父母からに決まっている。では、その父母は……。そして、その上は……。そして、また、……。その上の父母へとつながって、ついに、人間以前の生命体へつながっていく。
そして、我々人類こそ、地球上で最も遅く誕生した生命体なのであると思う。宇宙と太陽、海の幸、大地の幸、万端が整った時、〝星の王子様〟として誕生した。その生命の糸は、人間が生まれ出る以前の、諸々の生命たちへとつながって、ついには、宇宙創成の原点の〝生命の親様〟へと結ばれていくことがわかる。
だから、自分という一個の生命体の中には、まぎれもなく、何億万年の生命の歴史が刻み込まれていることになる。それぞれの遺伝子の中は、生命博物館のようなものではないか、と思われる。私は、自分の意識改革を実行する中で、この生命の流れに、本当に感心した。全人類を一本の生命の樹と見て、そこに花を咲かせている梢の先々が、我々、現世の人間の姿と見たのである。
私が、狂った果実となったことは、心という生命の養分が、祖先のどこかで、誰かが狂わしてしまったのだと思う。だから、私の身体に黒い花を咲かせ、黒い果実を実らせた。この生命の、心という養分を変えない限り、いつまでも、どこまでも、子孫の花が狂うのである。どこかで、誰かが、心の養分を自然体に戻してやらなければ、子孫のみんなに、迷惑をかけることになる。
代々引き継がれた心の歴史(潜在層)は、次第に、ひとつの生命体として、独り歩きをし、それが、現在の自分を操作支配する力となる。そして、今の心の習慣が、積もり積もって、自分を、さらに、子孫を支配する心の生命に育つ。自分の過去の心、祖先累々の心が、ビックリ箱のように、現在の自分の前に躍り出てくるという仕掛けであると思う。
こう考えてくると、勝手気まま、好き放題に、不調和な心を発散し続けてはならない。日頃の心の習慣が、ルーズになってくると、自己管理が不可能となって、人霊世界の思うままにされてしまうのだ。
だから、酒を一杯飲むと、過去前世の悪心、亡者が小躍りしてやってくる。心の世界には、時間、空間はなく、一面的、一本直通だから、一瞬にして現われる。こうして、生命の樹を伝って、全方向から、飲み足りない亡者の援軍が集結することになる。もう、こうなったら、現世の自分は、ブレーキなしの車が、下り坂を走るようなものだ。
ある日、妻が、こんなことを言った。
「お父さんが、少し飲み出すと、この世で飲み足りなかった人たちが、いっぱい集まってきます。〝もっと飲め、もっと飲めッ〟と、集まってくる。だから、お父さんであって、お父さんでなくなるのです」
と、言ったことが、今になって、そうであるとはっきり実感できた。
その亡者に対抗するためにも、日頃の自己管理=意志力が、いかに重要であることか。日々の心の習慣が、いかに重要であることか、身に沁みてわかった。七羽のカラスから攻撃を受けながらも、身心をバラバラに分離、組立てることになった理由も、そこにあった。
私は、身心に荒っぽい修行の負担をかけ、また、実際に、多くの修行体験もしてきた。危険な試行錯誤を続けた人体実験は、生命に対する不調和な行為だったと思う。この自己改革の執念は、死にもの狂いだった。人の道をはずした者が、道をはずしたことに気づかされ、子孫には、この因縁を流してはならじと、その一念が、今は、人の道をはずすことなく、生命の光が輝くように祈る毎日となっている。
いのちは ピッカピッカ輝く毎日だ
今日も、明日の一日も
手つかずのいのちの日めくりだ
ピッカピッカ輝く
いのちの世界が待っている!!
「生命の樹」223〜225頁
▼本の中身を見る
菅原茂/MBC21/1993年
「いのちとは」「心とは」という文字通りの “命題” について、 体験を通じた非常に強いメッセージを発している。 後年、この著者は『死んでも生きている いのちの証し』『神秘の大樹』を出版しているが、 第一作である本書を読むと、 なぜこの著者が、共時性を切り口にして「いのち」を語るのか、 腑に落ちる。
▼本の中身を見る
菅原茂/たま出版/1997年
共時性現象の体験記録をもとに、生命の本質は不滅だと伝えている。 酒乱人生から夫婦二人三脚で新たな人生を再出発させた著者。自らの足元を照らすかのような共時性現象の記録を随想としてまとめている。また、本の表紙を飾る稲穂はこの著書の本質を象徴している。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2009年
この〝いのちの顔〟は、主に、雲を筆頭にしたものが多くなっている。客観する皆さんには、必ずしも〝顔〟や〝ある形〟に似ていると思うかどうか、(中略)。俗に、偶然の出来事として、面白おかしく取り沙汰されていることでも、私にしたらとんでもない関心の高い領域であるから、子細なことでも記録に残してきた。この体験記録を改めて観ていると、そこには示唆や啓発に富んだ情報の多いことに気づかされる。(まえがきより抜粋・随想写真集)
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
文字・数・色は人間の意思だけではなく、生死の境やほかの生物などと境なく、いわゆる「霊」や「魂」の意志性を代弁している。 共時性現象(=偶然の一致)は、それを認識させてくれると同時に、一人ひとりに対するあたたかい道案内の現象だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2012年
酒乱から脱却し、自分のいのちに目覚めて間もない著者が、心おもむくままに訪れた旅先で次々と出会う「亀」。体験の記録を、第2巻と共通するシナリオ形式のコミカルな物語として展開し、縁は単なる偶然ではなく、宇宙根源に根ざす生命の本質(真性魂)による道案内だと伝えている。
▼本の中身を見る
菅原茂/おりづる書房/2011年
いまを生きている自分(あなた)自身の存在こそ、肉体をまとい、服を身につけている霊魂そのものだという。 霊魂というと、わが身の外に存在し、わが身の外で起きる「現象」と考えがちだが、そもそもそれは、私たちのからだやこころに内在し、わが身の中で起きていることがらなのである。